嵐を呼ぶ 栄光のヤキニクロード





「オトナ帝国」、そして「戦国大合戦」で、クレしんの社会的評価を大いに高めた原監督は、「戦国大合戦」を最後に監督の座から遂に降りることになりました。まさに、劇しんにおける一つの時代が終焉を迎え、新たな時代への幕開けとなったのです。

そして、原監督の後釜を受けたのが、それまで原監督の作品で演出を、そして短編「クレしんパラダイス」では監督を務めた水島努氏です。

水島監督の第1作(劇しんでは第11作)「ヤキニクロード」は前作「戦国大合戦」とは打って変わって感動なし(見方によっては感動になりうるかもしれないが)、かつギャグで突っ走っているというのが基本的なコンセプトです。「クレヨンしんちゃん映画大全」(双葉社)の中のインタビューで、水島氏は感動なし、ギャグてんこ盛りの一本をやってみたいと語っていますが、まさに本作品はそれに該当すると言えます。

そして、ギャグだけでなく、様々な新しい試みが、「ヤキニクロード」ではなされています。例えば、劇しんで初めてオープニング前のプレタイトルのシーンが無くなっており、いきなりオープニングから始まっており、代わりにエンディングの後に、話が(ほんの僅かであるものの)続いているという形になっています。

つまり、形式上に限って言えば、本作品を劇しんの最大の異色作と見なすこともできなくはないです。しかし、内容はギャグを基調とした(ギャグが他の作品に比べ過剰ではあるが)、まさに正道に則った作品であると言えます。

さて、具体的に内容を見ていきますと、オープニング後の本編開始早々、あまりに粗末な朝食という笑いのシーンが出てきます。そして、その粗末な朝食が映像に映し出されているシーンには、台詞はおろか、BGMや効果音すらありません。

つまり、観客はここで笑い、その笑い声がBGMの代わりになるから、あえて何も挿入されていないのであると考えられます。つまり、製作スタッフにとって、観客を笑わすのに最も自信のあるシーンの一つなのであり、それほどのギャグを冒頭に出すことで、前作「戦国大合戦」と袂を分かつ、さらに言うなら前作の存在を忘れさせようとしているようにすらも感じられます。

さて、その粗末な朝食にしんちゃん達は激怒しますが、夕食には超高級焼肉が食べられ、そのために切り詰めたのだというみさえの話を聞いて納得します。その焼肉用の肉を、しんちゃん達が「おー!」と見つめるシーンは、まるで宝を発見したかのような描かれ方ですが、「ヤキニクロード」において、その肉はまさに宝なのであり、本作品の最終目標はその宝(焼肉)にありつく事なのです。

そして、焼肉にありつく事は、「ヤキニクロード」では日常の世界に戻る事も意味します。本作品は日常→非日常→日常という、劇しんにおいてオーソドックスな展開がなされていますが、日常イコール焼肉(にありつく事)、つまり日常の「特定化」がこの作品の大きな特徴です。

これまでの作品では非日常にこそ、その作品のテーマが含まれており、「ヤキニクロード」の非日常もそれ(「熱海」として)含まれてはいるものの、「ヤキニクロード」はタイトルからでも分かるように、非日常よりむしろ日常のテーマに重きを置いているという、これまでに例の無い構造となっています。

さて、焼肉にありつくために、スウィートボーイズという組織との対決を余儀なくされた野原一家ですが、「ヤキニクロード」には強い味方のキャラクターが登場せず、「オトナ帝国」と同様、野原一家(あるいはかすかべ防衛隊)が一大勢力となっています。ただし、本作品には元々白衣の男(ボスの兄)とスウィートボーイズが対立するという二大勢力が存在していたのですが、白衣の男は堂ヶ島少佐にあっさりと捕まってしまいます。

しかし、その直前に、(判明したのは後になってからだが)白衣の男は野原一家との会話を熱海サイコのパスワードにしてしまった事から、「一大勢力」というバトンは、野原一家に引き継がれたわけで、ここから野原一家が焼肉にありつくための戦いが始まるのです。

さて、スウィートボーイズは春日部(全国?)中に野原一家を指名手配する偽のニュースをテレビやラジオで流します。その罪状は、ひろしが異臭物陳列罪、みさえが年齢詐称、しんちゃんが幼児変態罪、ひまわりが結婚詐欺、シロが集団暴走行為及び飲酒運転という、おおよそありえないものですが、春日部の住人達は何とこれを信じてしまい、(報奨金が出ることもあって)野原一家を捕らえようとします。

無論、この野原一家に対する罪状はあくまでもギャグであり、春日部の住人達が追いかけるのは、ストーリーを進めるためであると思われますが、このような展開は観客に対して警告を発しているようにも見られます。

テレビや新聞、ラジオ、そしてインターネットと、我々の身の回りには情報が溢れかえっており、常にリアルタイムで情報を入手する事が容易となっています。しかし、その一方、何が真実で何が嘘かを見分けるのも困難になっているとも言えます。

特に、新聞やテレビなどの公的機関からの情報はなんら疑いを持つことも無く受け入れてしまう傾向があり、しかも読者や視聴者がその内容を正確に把握しているのかと言えばそうでもなく、単に印象でしか捕らえていない場合も多々あります。

劇中にも、野原一家を見て「テレビでやってた殺人一家」と慌てふためく主婦らしき女性がいますが、わけの分からない罪(異臭物陳列罪など)をいつの間にか殺人罪に置き換えている、つまり「極悪人の一家」という印象から、記憶が歪められてしまったと言えます。

まさに、メディアの中に潜む危険性を指摘したものと解釈が出来ますが、もう一つ、この野原一家の指名手配には別の危険性の警告も発していると考えられます。

野原一家は逃走の途中で、ミッチーとヨシリンの罠にかかります。ヨシリンは「おとなしく正義のおナワにつけ!」と言いますが、ヨシリンだけでなく、野原一家を捕まえようとする春日部の住人達も、まさに正義が悪をこらしめるという図式にすっぽりはまっていると言えます。

つまり、野原一家に悪というレッテルを貼り付け、自分達が正義の味方になるという熱狂に駆られているのです。
春日部の住人達が大人数で野原一家を追いかけるシーンは、まさに群集心理を描いており、それは精神分析学の創始者ジクムント・フロイト(1856〜1939)の論文『群集心理と自我の分析』の中の、以下の内容と一致します。

『群集はきわめて信じやすく、影響を受けやすい存在で、批判能力を持たず、その感情は常に単純で大袈裟であり、演説家が彼らを感動させるためには表情や内容を誇張し、同じことを何度も繰り返せばよい、と。さらに、群集は偏狭だが権威には従順であり、自分たちの英雄に要求するものは力であり暴力ですらあって、一方で群衆は支配され、抑圧され、支配者を恐れることを望むものである、とも。』(「別冊宝島1174号 ヒトラーの謎」より引用)

(フロイト学説そのものが正しいか否かは措くとしても)野原一家を捕らえるする、春日部の住人達の心理はこれに尽きます。
実際、「演説家」(この場合はスウィートボーイズのテレビやラジオのアナウンサー)は野原一家に対してでたらめな罪状をを何度も読み上げ(ふたば幼稚園の職員室のテレビのニュースで、何度も同じ内容が読み上げられている)、群衆である春日部の住人達はスウィートボーイズの権威に従順であり、彼らの言う事を疑わず、その権威に支配され、抑圧され、恐れを抱くことすら望んでいるという拡大解釈もできなくはなく、まさに権威を絶対視していると言えます。

このように、人間が群衆の中に埋没してしまえば、自分自身の思考能力を失い、その中にただ流されてしまうという危険性も、「ヤキニクロード」は警告を発していると言えます。さて、そのような群集の追跡は途中からピタリと止み、追跡者はスウィートボーイズのみとなりますが、その間の楔となっているのが下田部長の初登場シーンです。

この下田部長と野原一家の会話から、スウィートボーイズの本部が熱海にある事を野原一家は知り、ここで「ヤクニクロード」における味方のキャラクター達(野原一家)は何をなすべきかが事実上確定します(即ち、熱海の本部へ行くという事で、野原一家も後にそれに気付く)。

さて、その直後に登場をするのが天城であり、「温泉わくわく」の指宿と後生掛以来の「強いおねいさん」であります。しかし、それまでとは異なり、味方ではなく敵として登場しています。

このような、かつてとは異なる設定で登場する例は、オカマにも当てはまります。「ヤキニクロード」には、「温泉わくわく」以来、登場していなかったオカマも再登場を果たします。それがひろかとトラックのドライバーの二人ですが、やはりこれまでの設定とは大きく異なっています。

まずひろかですが、これは言うまでもなく、ひろしが逃走のために行った女装であって、つまりあくまでも見かけだけであり、厳密な意味でのオカマではありません。

さて、もう一人のトラックのドライバーですが、こちらはひろしに惚れるという事から、正真正銘のオカマです。しかし、これまでの劇しん(またはテレビアニメ)でのオカマは、見た目やしぐさ、言葉遣い(オネエ言葉)からそうだと判断できましたが、このドライバーの場合、見た目は男性であり、言葉遣いも男言葉です。

つまり、従来のクレしんのオカマも持ってはいたものの、それほど重視されていなかったホモ(同性愛)の側面がこのドライバーには強調され、と言うよりもそれは、彼がオカマたる唯一の所以にもなっています。

さて、「ヤキニクロード」は野原一家の活躍がメインですが、その一方でかすかべ防衛隊の見せ所もあり、この点は「オトナ帝国」と同様です。しかし、ここでも両作品には決定的な相違点があり、それは「オトナ帝国」は一度家族(野原一家)が崩壊しているのに対し、「ヤキニクロード」は友情(かすかべ防衛隊)が崩壊しているという事です。

かすかべ防衛隊の4人(特にマサオ君)は、当初しんちゃんを信用しておらず、スウィートボーイズに密告をし、しんちゃんを捕らえる手助けをしてしまいます。しかし、後になって思い直し、逆にしんちゃんを助けることになります。

このような4人の変化は、水島監督の次回作「カスカベボーイズ」を思い起こさせるような展開であり、もし彼らがしんちゃんを最後まで信用できないまま、「ヤキニクロード」が終わりを迎えていたら、「カスカベボーイズ」という作品は生まれようがなかったとも言えます。

かすかべ防衛隊の絆の深さは、ジェットコースターでしんちゃんのために、スウィートボーイズに対し勇猛果敢に立ち向かうところからからでも明らかですが、単に立ち向かうだけでなく、この時に風間君がしんちゃんに、自分の自転車の鍵を渡すシーンからでも、その事が分かります。

それは、風間君は自転車を壊しても構わないと言っている事からだけでなく(無論それもあるが)、このシーンには、友情の絆を示すものがもう一つ存在します。

風間君がしんちゃんに渡した鍵には、マリーちゃん(「不思議魔女っ子マリーちゃん」の主人公)のストラップが付いています。これは風間君がマリーちゃんの隠れ大ファンであるというテレビアニメの設定に基づいたものですが、風間君は自分がマリーちゃんのファンである事がばれる、さらにはマリーちゃんのグッズ(ストラップ)を手放してしまうという事に対する抵抗感が、この時の風間君には見られません。つまり、自分より友を優先しており、友情の絆の深さというものがここでもよく分かります。

また、前述したように、「ヤキニクロード」の基本的なコンセプトはギャグでありますが、そのギャグの中にも家族愛といったものが垣間見られるシーンがあります。それが、本作品の最大の笑いどころの一つである野原一家のリアル顔のシーンです。

このシーンでは、野原一家は離散状態にあるわけですが、このリアル顔のシーンで、焼肉を食べることを妄想し、その直後には野原一家は誰もが一生懸命に頑張ろうという気になります(リアル顔の前は弱気になっている)。

これは焼肉にありつきたいという欲望(食欲)だけでなく、(そのありつける時には家族と再会を果たしているという前提があり)家族と再会したいという気力の二つから発せられるものですが、特に後者の家族と再会できるという望みから、たとえ離れ離れであっても家族が団結しているという解釈ができます。

ちなみに、しんちゃんのリアル顔の妄想シーンでは、金髪でクールな性格ですが、焼肉を食べた途端「あひ〜ん」とその味に酔いしれており、その前までのクールさとのギャップがギャグとなっています。これはまさに、これほどのギャップが生じるのだという焼肉の「効用」を示したシーンであると言えます。

さて、リアル顔のシーンを経て、野原一家は全員が一生懸命になり、ついに熱海へ到達します(なお、しんちゃんがリアル顔になる前に、自転車で山道を上るシーンの背景に富士山が大きく映っているシーンがありますが、これはジェットコースターのシーンで、しんちゃんが「富士山」と指すシーンとの対比が可能です。つまり、ジェットコースターのところ(パンフレットによれば八王子の辺り)ではまだ遠いものの、山道のシーンのところでは、熱海はもう近い(富士山は熱海と同じ静岡県と、山梨県との県境にそびえ立っている)事を指し示していると考えられます)。

まず、ひろし(とひまわりとシロ)とみさえがしんちゃんに先立って、スウィートボーイズの本部に着き、本部へ行くロープウェイ乗り場で、堂ヶ島少佐と下田の部隊と戦うことになりますが、あっさりやられてしまいます。

しかし、その直後にしんちゃんも到着し、野原一家が全員揃うと、今度は次々と倒していきます。これこそ、野原一家が全員再集結したことで、奇跡的な力が発揮できた、つまり家族の絆が生み出す力の強さをここで見せつけたのだと言えます(なお、その強さはひろしとみさえ(とひまわりとシロ)がしんちゃんの自転車を必死に止めるところでも表れており、その一方天城の部隊が海へ落ちていくシーンは、その直後に堂ヶ島と下田の部隊もやられる事を暗示している)。

さて、その後野原一家は本部へ乗り込みスウィートボーイズのボスと対面します。このボスは熱海サイコという装置を使って、熱海に対する復讐を行おうとします。そのボスは、キャラクターとしては「温泉わくわく」のアカマミレに最も近いと言えます。両者共に、己の独り善がりな理由から、特定のもの(アカマミレは温泉、ボスは熱海)に対して恨みを抱いており、その一方で絶対悪というわけではなく、心に深い(?)悲しみを負っているという点についても同じです。

熱海サイコという装置は、自分の考えた事が他人の脳に強制的に暗示をかけられ、それは相手の肉体までもを変えてしまうことができます。つまり、バーチャルを具現化させるという事であり、その点において、熱海サイコは「ブタのヒヅメ」のコンピューター・ウイルス(ウイルスがコンピューターから具現化される)に最も近いと言えます。

そして、このような接点を持つ両作品には、ぶりぶりざえもんが具現化されているという共通点があります。また、「ヤキニクロード」の方には、ぶりぶりざえもんになったしんちゃんが自分のちんちんを見て、「あはー、オラのちんちんの勝ち」と喜ぶシーンがありますが、これはまるで、「ブタのヒヅメ」のぶりぶりざえもんが消えゆくシーンで、彼が「ホントは私のちんちんの方が大きかったよな?」と問うた事を、しんちゃんが未だに覚えていて、根に持ち続けてきたのではないかと思わせます。

「ヤキニクロード」では、しんちゃんだけでなくスウィートボーイズ、さらには熱海中の人間までもがぶりぶりざえもんに変身しますが、これは「ブタのヒヅメ」の、ぶりぶりざえもんのイメージビデオの中で何人(何匹?)ものぶりぶりざえもんが登場するシーンを膨らませたものであり、製作スタッフやファンの(塩沢氏のぶりぶりざえもんが見られるという)もはや永遠にかなわぬ願いを具現化させたものであると言えます。

このようなぶりぶりざえもんやギャグの嵐と、「ヤキニクロード」には名(迷?)シーンと言えるところがいくつもありますが、その一方、観客にとっていささか腑に落ちない点もいくつか存在します。

その最もたるが、スウィートボーイズのボスは結局何をしたかったのかという事で、それは最後まではっきりすることはありません(熱海を消し去れ、さら地にもどせと言う一方、オレ自身が熱海になるとも言っている)。

また、前半の野原一家の指名手配では、ひろしが双葉商事を懲戒解雇となり、その後どうなったのか、かすかべ防衛隊の4人のその後に関しても、一切不明のままです。

そして、堂ヶ島少佐と天城の関係についても詳細は不明ですが、この二人が(堂ヶ島には家族がいる事から)不倫の関係にあり、それは、前作「戦国大合戦」の又兵衛と廉姫のプラトニックな純愛とは違い、ドロドロとした不健全なものであると考えられます。このような状況での、男女間の微妙な心理状態が子供に理解できるとは言い難く、恋愛と言う点に関しては、「戦国大合戦」の方が子供にとってまだ分かりやすいです。

つまり、「戦国大合戦」は子供向けで、実は「ヤキニクロード」こそが(スティーヴ・ブシェミや「ブラックホークダウン」など、洋画のパロディがさりげなく挿入されている事からも)大人向けであるという、一般の評価とは全く逆の解釈も可能となってくるのです。

実際、「不健全」という点では、ひろかの「あ〜ん、私のミルコ〜」、「やだわ〜、安もんのシリコンはこれだから」というセリフや、ドライバーのひろしに対する言動など(他にも、下田部長がドライバーに足で体を締め上げられるシーンは、彼が性的なマゾヒストである事を暗示していると言えなくもない)、本当に子供向けの映画なのか疑わしくなるシーンも多々あります(だからこそクレしんらしさが表れているとも言えるのだが)。

前述したように、「ヤキニクロード」にはスウィートボーイズのボスの企みや、堂ヶ島と天城の関係が最後まではっきりしないなど、不明瞭な点が少なくありません。これは、ギャグや水島監督、製作スタッフらの趣味を作品に登場させることを優先したために、その結果として、ストーリーや人物描写が粗雑になってしまったと言えます。

そしてそれは、ギャグやクレしんらしさが影を潜め、その分ストーリーや人物描写に重きを置いた前作「戦国大合戦」、そして水島監督の第2作「カスカベボーイズ」と対極をなしているわけでもあるのです。





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