多様化と継続


23〜25巻





非日常の話の登場、ひまわり誕生など、数々の変化を遂げてきたクレヨンしんちゃんは、その後しばらく大きな変化が影を潜め、初期や全盛期の頃のスタイルに回帰しようとする傾向が、単行本の22、23巻辺りで見られます。もっとも、一度大きく変化した以上、元に戻ることはなく、それはあくまで多様化の上における現象であります。

さて、回帰への傾向の一つとして、22巻もそうですが、23巻には一つのテーマが複数の話として収録されているという、ストーリー漫画めいた傾向が見られなくなっていることが挙げられます。つまり、ひろしの痔での入院、北海道旅行、ハワイ旅行、接骨院での入院話といったものが影を潜めているめているのです。

確かに、23巻から24巻にかけて、銀之助が野原家に居候する話が複数ありますが、これはストーリー漫画を形成する機能を果たしているとは言えません。

ストーリー漫画めい た傾向の話としては、まつざか先生と行田徳郎の恋愛話や海水浴でサーフボードを習う話などが挙げられますが、それらはあまりストーリー漫画としての傾向は顕著ではありません。そして、この後次第にその傾向が強くなっていきます。そして、その傾向が頂点に達したのが、またずれ荘への引越しだと言えます。

また、24巻には、(前にも触れた)まつざか先生の恋人の行田徳郎が南米へ行ってしまう話がありますが、それは一種の回帰の表れだとみなすことが可能です。徳郎の南米行きは、即ちまつざか先生を彼氏がいない状態に戻す事と同然であると言えます。

これにより、「本来」のまつざか先生への回帰がなされ、しかも形式上は彼氏がいることから、別の男の恋人に収まるというのは(少なくとも倫理上においては)、もはやない、つまり、徳郎が帰国しに限りは、まつざか先生は実質上昔どおり彼氏がいない状態のままなのです。

そのような蛇の生殺しのような状態に置かれているところが、(この頃において)結婚話にまで進んだよしなが先生とは大きく異なるところで、両者のキャラクターのタイプの違いを象徴しているかのようにも見えます。
逆に言えば、徳郎が帰国することになれば、それは作品の多様化の一つだと見ることができます。

また、24巻で、ネネママがウサギのぬいぐるみを電話線でしばき、それをネネちゃんが呆然と見ているシーンがありますが、この頃既にネネママと一緒にウサギのぬいぐるみを叩いていたネネちゃんの性格もまた、ここで一時回帰したものと言えます。

その一方、4人家族としての野原一家が板についてきたとも言えます。ひまわり誕生後のしばらくは、ひまわりが主人公のしんちゃんを脅かす存在であり、その後はひまわりの出番が少なくなり、しんちゃんを脅かす存在ではなくなります。そして、この後ひまわりの「活躍度」は再び増加してきたという傾向があり、この辺りでひまわりの立場が定着するようになったと思われます。

ひまわりの立場とは、主人公を脅かすことはあっても主人公の座を取ってしまうことはないという、微妙なものだと言えます。ひまわりの立場が定着したことにより、4人家族としての野原一家が板につくようになったのです。

ただし、それでもクレしんが継続する以上、それ以降も多様化は必然であり、後に「プッチプチひまわり」というひまわりが主人公の座を「下克上」した現象が後に生まれたり(板につくようになっても、やはりその変化は免れないと言える)、再びストーリー漫画めいた傾向が表れる事からも、それが分かります。

さて、クレしんは一時回帰の傾向を表したかのように見えたもの、その後はやはり多様化へと進んでいくことになります。例えば、ひろしの兄せましや、シロにガールフレンド(メグ)ができたことなど、新キャラクターの登場が一つに挙げられますが、これらのキャラクターは作品に大きな影響を与えるようなったとは言い難い、登場したもののやや無駄の感が拭えません。

その一方、25巻で登場した酢乙女あいは、かすかべ防衛隊に匹敵する程の主要キャラクターにまで「昇格」したと言え、作品そのものにも大きな影響を与えた人物だと言えます。それはまた、作品を多様化させるにも一役買ったということでもあります。

従来の登場人物に関しても、多様化の傾向があり、例えば23巻でマサオ君が非常に几帳面な性格で、それは母親にである事が判明している事からも言えます。ただし、、このような設定は、作品に大きな影響を及ぼすような効果は無く、一過性のものに過ぎないものです。

また、多様化と言えば、非日常を取り扱った話にも表れています。非日常の話は当初、日常の話での設定はほとんど捨てられている、全く別のものだったのが、時が経つにつれ、日常に手を加えた程度のものが増加していったのは、前回(嵐を呼ぶ園児の復活)指摘した通りです。

そして、その傾向はさらに顕著なものへとなっていき、初期の頃への回帰を見せた22〜23巻においても例外ではありません(ただし、このような非日常の日常化は、(非日常の話がまだ無かった)初期の頃への一貫した回帰の表れだという解釈もできなくはない)。

さて、多様化というのは、主人公のしんちゃんそのものにも言えることです。そしてそれは、急進的なものにもなりうるのです。24巻に収録されている「北与野博士の大発明で野原一家は大パニック!?編」で、それが起こっていると言えるのです。

ここでは二つの話が収録されており、一話目(「北与野博士のあぶない大発明」)はしんちゃん(とみさえ)の全く逆の性格ををした本人が現れるのですが、全く逆の性格であるために、しんちゃんの(普通の)笑顔のみならず腹黒い笑みも正面から描かれているシーンがあります。

ただし、これは21巻のしんちゃんとみさえが入れ替わってしまう話(「オラが母ちゃんで母ちゃんがオラで・・・!?」)と同類であり、しんちゃんが如何に特異なキャラクターであるかを、単に強調しているかに過ぎないと言えます。

しかし、二話目(「北与野博士の大発明 しんのすけのばっく・とぅ・ざ・ふゅーちゃー」)には、しんちゃんが二人のチンピラに絡まれるシーンがあり、しんちゃんはただ怯えるという事態になってしまいます。これは、それまででは全く考えられなかった現象です。

野原しんのすけというキャラクターは、「嵐を呼ぶ園児」という言葉が示すように、何事にも怖気づくということはありませんでした。

確かに、みさえのおしおきに怯えたり、ひまわりに振り回されたり、また劇場版でも悪役に怯えるという事はありましたが、みさえやひまわりは極めて身近な存在であり、劇場版の悪役は日常からではあまりに異常な存在であることに起因しているからであり、日常の世界の(普通の人間の)他人に怯えるようなことはありませんでした。

実際、第1巻ではチンピラの車のエンブレムを平気で曲げるようなことをやっており、21巻でも上尾先生に「彼は「こわい」と思ってないのよ!!何も考えていないから大胆な行動が出来るんだ!!」と評されていることからも分かります。

しかし、この話では、その上尾先生が評した規範は完全に踏みにじられてしまい、いくら自分の存在がかかっているという危機的状況であるにせよ、チンピラにからまれ、ただ怯えて泣きわめくしんちゃんは、もはや(マサオ君のような)平凡な一幼稚園児であり、本来の「嵐を呼ぶ園児」とは、あまりにも大きくかけ離れてしまっています。

実際、原作者もこれはさすがに行き過ぎと感じたのか、このような話はこれきりとなっています。36巻でも、しんちゃんはチンピラにむなぐらを捕まれるシーンがありますが、こちらは全く動じず、神経の図太さ(無神経?)ぶりを見せつけています。

他にも、24巻にはかすかべ防衛隊のしんちゃん以外の男子(風間君、マサオ君、ボーちゃん)が顔を赤らめ笑う姿が後ろ向きで描かれているシーンがあり、特にボーちゃんがこのように描かれることはこれ以外にありません。こちらもさすがに行き過ぎたのか、それとも単に描く機会が無いだけなのか、どちらかなのでしょう。

さて、15巻以降、原作者自身をパロディ化したキャラクターのよしいうすとが登場しており、後にこれをさらに進めたパロディが、28巻からの原作者自身の登場ですが、24巻で既に、みさえのセリフ(「マンガ家が〆切前日なのにネタができないくらいたいへんなのよ」)にその伏線らしきものを見出すことが出来ます。これからでも、クレヨンしんちゃんが多様化へと進んでいることが分かります。

この頃のクレヨンしんちゃんは、初期の頃に回帰しようとする一方、さらに多様化へと進んでいく傾向(あまりに急進的になってしまったケースを含め)も見られますが、様々な姿を見せつつも、作品そのものはその後も継続していくことになるのです。



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