比較作品論2



INHALTSVERZEICHNIS


はじめに

興行収入の変動とその要因

日常と非日常の定義

敵のあり方

「オトナ帝国」の描写

「戦国大合戦」の描写

「ヤキニクロード」の描写

「カスカベボーイズ」の描写

「3分ポッキリ」の描写

「踊れアミーゴ」の描写

「ケツだけ爆弾」の描写

「金矛の勇者」の描写

描写のまとめ

表の考察

興行収入の推察

ヒットにつながる作品

あとがき






はじめに

本文は劇場版クレヨンしんちゃんの作品を比較して論じたものであるが、前作の比較作品論の純粋な続編というわけではく、前作とは内容的に直接のつながりは無い。実は、本文は「金矛の勇者」の興行収入が過去数年にわたる作品に比べて急落した原因を探るのが当初の目的であった。

しかし、それまで過去数年に亘って公開された劇しんを比較したところ、実は興行収入を左右する法則がいくつか見出せるのではないかと気付き、「金矛の勇者」だけでなく、過去数年の作品を比較するという路線に変更することにした。

その比較した結果が本文である。「金矛の勇者」がなぜヒットしなかったか、それは劇しんにおける興行収入が下落すると思われる法則に、見事に則ったからであり、前作の「ケツだけ爆弾」がヒットしたのは、ヒットに導くための法則に則ったからだと言える。本文において、劇しんに対する考察を深めていただければと思う。



興行収入の変動とその要因

劇しんの第1作目の「アクション仮面vsハイグレ魔王」は22億円、第2作目の「ブリブリ王国の秘宝」は20億円と、これ以降の劇しんの作品と比べても突出した興行成績を誇っているが、これは当時のテレビアニメの平均視聴率が20%以上という事からも、世間がクレしんブームであり、そのブームに乗じて成立した数字であると言える。

ここからも分かるように、初期の劇しんはテレビアニメの視聴率に左右されていた。劇しんが視聴率に左右されなくなって、あくまでも作品の内容が興行収入に反映されるようになったのは、「オトナ帝国」以降であると思われる。同作品以降の劇しんは、大部分が13億円前後に留まっており、非常に安定しているからである。

一方、テレビアニメの視聴率は「オトナ帝国」や「戦国大合戦」が公開されていた2001年や2002年の頃は非常に悪く、10%以下になることもしばしばであった。これは、土曜日の放送では視聴率が伸びにくく、また「戦国大合戦」が公開された頃には、ワールドカップなどにより、他の番組に押されてしまうという事情が存在したからである。

この点から、劇しんはテレビアニメから既に独立した存在になっている事が示唆されている。その後、「カスカベボーイズ」が公開された2004年の10月以降になると、テレビアニメの放送日が金曜日に移ったことにより、再び視聴率が上昇し、大半の放送の視聴率が10%を超えることも珍しくなくなった。筆者は、2005年以降の視聴率を全て記録しているが、2005年から2008年までの、それぞれの平均視聴率と、その間に公開された「3分ポッキリ」(2005年公開)、「踊れアミーゴ」(2006年公開)、「ケツだけ爆弾」(2007年公開)、「金矛の勇者」(2008年公開)の各作品の興行収入は以下のようになる。


  視聴率 興行収入
2005年 11.46% 13億円
2006年 10.72% 13.8億円
2007年 10.49% 15.5億円
2008年※ 10.07% 11.6億円?

(※2008年の平均視聴率は6月20日までの時点)


このように、2005年から2008年にかけての、テレビアニメの視聴率はわずかではあるものの減少傾向になり、劇しんの興行収入は逆に急上昇している。そして、2008年になると劇しんは急に下落している。ここからでも、視聴率と興行収入に相関関係が見られないのは明白である。

それでは、何が劇しんの興行収入を左右しているかと言えば、宣伝などが挙げられるかもしれない。例えば、「ケツだけ爆弾」は15作目という記念すべき作品という宣伝が効いて、多くの観客を引き付けたという推測も成り立ちうるが、そもそも劇しんがここ数年において毎年行っている宣伝は、それほど大差のあるものではない。

また、例えば「金矛の勇者」が「踊れアミーゴ」に約2億円もの差を付けられた原因が宣伝にあるとは考えにくい。筆者の個人的な記憶からしても、両作品はほぼ同程度の規模で宣伝をしていた。他にも、前作の内容の良し悪しに影響されて、それが興行収入に影響を与えているとも考えられるが、前作の影響だけが原因となっているのかも疑わしい。

「踊れアミーゴ」の前作は「3分ポッキリ」であり、「金矛の勇者」の前作は「ケツだけ爆弾」である。作品の評価や興行収入は「3分ポッキリ」よりも「ケツだけ爆弾」が上回っている。前作の影響に左右されるのであれば、「金矛の勇者」が「踊れアミーゴ」を上回っているのが自然である。また、監督や製作スタッフのネームバリューが原因になっているとは思えない。そもそも、劇しんの観客の大部分を占める子供たちは監督やスタッフの名前など見ないであろうし、大人にしても「金矛の勇者」の本郷監督の方がムトウ監督よりも評判が良いとされている。

こういった点から、劇しんの興行収入を左右する最大の要因は、やはり内容そのものにあるのではないかと思われる。劇しんに限らず、興行収入を左右する最大の要因は内容の良し悪しであり、内容がつまらない作品はやはり制作側が期待するだけのヒットを出せないのではないだろうか。

そうなると、劇しんはそもそも何によって観客を引きつけてきたのか、そして何によって観客の離反を招いたのか、はじめにでも書いたように、本文は各作品の内容を比較考察した上で、ヒットを導き出す法則を見出そうとしたものである。

「オトナ帝国」から「金矛の勇者」までの8つの作品の興行収入は、以下のようになる。この興行収入をもとに、やや大雑把ではあるものの、作品をヒットさせられた「勝ち組」とそれほどのヒットが出せなかった「負け組」とに、便宜上二つに分割してみることにする。

「勝ち組」の作品は、興行収入が15億5千万円の「ケツだけ爆弾」、14億3千万円の「オトナ帝国」、13億8千万円の「踊れアミーゴ」、13億5千万円の「ヤキニクロード」である。一方、「負け組」の作品は13億円の「戦国大合戦」、同じく13億円の「3分ポッキリ」、12億8千万円の「カスカベボーイズ」、そして2008年7月の現時点おいて正確な数値は不明だが、11億6千万円ほどと思われる「金矛の勇者」である。



日常と非日常の定義

これら「勝ち組」と「負け組」の各作品には、いかなる共通点もしくは相違点が存在するであろうか。筆者の体験も含めて、なるべく客観的な視点からそれを考察すると、日常と非日常の描写の手法が一つの要因になるのではないかと思われる。

個人的な事を言うと、「金矛の勇者」を鑑賞した時、筆者はこの作品が前作の「ケツだけ爆弾」ほどヒットするとは思えなかった。それは、日常の場面が長く感じられて、例えば中盤のマックとの戦闘機による戦いはともかく、マタやプリリンなどが初めて登場するシーンでも非日常性が感じられなかったためである。ここから、日常と非日常のバランスとその描き方が作品の面白さを決定づける要因になりうると考えられる。

ここで、日常と非日常の定義について述べる。筆者は、これまで映画編などにおいて、日常と非日常を区別した上での考察をたびたび行ってきたが、本文においては日常と非日常の定義を従来のそれとは若干異なるものとする。なぜなら、前述したように「金矛の勇者」の非日常の場面にはそもそも非日常にいるとは感じられなかったからである。

他にも、例えば「カスカベボーイズ」でしんのすけらがジャスティスシティで暮らす場面も、それはいつもの春日部から場所を移しただけの日常の生活を描いているものとなっており、建前上は映画の世界に入り込んでしまったという事で非日常であるが、実質上はしんのすけらが太陽を動かしてジャスティスらと戦うまで、日常の場面を描いてきたと言える。これは、筆者も映画編の考察や比較作品論で「非日常の中の日常」という言葉で表現したものであり、通常の非日常とは異なったものである。他にも「踊れアミーゴ」のように、表面上は日常であるものの、春日部の多くの住人が既にそっくりさんと入れ替わっているという状態において、果たして実質的に日常と言えるのかが疑問である場面も存在する。

このように、日常や非日常の描写の手法が多様化しており、単にしんのすけらをとりまく周辺の状況のみを見るというこれまでの方法による定義では、日常と非日常を明確に区別するのは不可能である。そこで、定義の方法を変えるわけであるが、それは、周囲の環境を基準にするのではなく、しんのすけもしくは周りのキャラクターの精神状態を基準にするという方法である。

つまり、キャラクターが劇場版における非日常の要素を直接もしくは間接的に触れることで、そのキャラクターがいかなる精神状態であるかで、日常と非日常の区別を行うわけである。例えば、「戦国大合戦」では戦国時代にやって来たしんのすけは、当初は戦国時代に来てしまったという非日常の出来事に対して取り乱したり不安を感じたりすることはない。それまでの、日常の生活と変わらない態度であり、ここから「戦国大合戦」は実は日常のシーンが非常に長く描かれている作品の一つであると言える。

そして、ひろしたちも戦国時代に来ると、彼らは現代に戻れず戦国時代でいることに不安を感じ、その後の戦ではそのような不安を押し殺しながら高虎らと必死に戦おうとする。ひろしやみさえの精神状態から、彼らが戦国時代にやって来てから、作品は非日常に突入した判断できる。

また、「踊れアミーゴ」ではしんのすけはそっくりさんに入れ替わっていても、それほど恐怖に怯えることはないが、風間君が自分の母親が入れ替わっているのではと不安を覚え、よしなが先生や園長先生のコンニャクローンに対して恐怖を感じるシーンなど、このような風間君の精神状態が重点的に描かれている事から、同作品は「オトナ帝国」や「ヤキニクロード」のように、かなり早い段階で非日常に突入していると言える。



敵のあり方

日常と非日常の区別の他に、「金矛の勇者」の鑑賞を通して、筆者は敵の描写の仕方にも「勝ち組」と「負け組」の各作品に大きな相違点があるのではないかと考えている。「金矛の勇者」を鑑賞すると、ダークなど敵の親玉が早くから登場し、彼らの正体などもある程度は比較的早い段階で分かるようになっている。彼らが地球ではなく別の世界からの人間でありながら、マックやプリリンなどがしんのすけや野原一家をあまり苦戦させずに敗れたところに筆者は拍子抜けを感じたものだが、これは敵のインパクトとその実際の戦いとの間に隔たりを感じたからである。このように、観客に与える印象と実際の戦闘能力などが作品の内容に大きな影響を及ぼすのではないかと考えられる。

それでは、いかにして敵の考察を行うかというと、これも非日常と日常の定義と同様、二つに分けることにする。それは、敵が野原一家などのような普通の人間であるか、あるいは現実離れした人間もしくは人間以外の生物かである。そして、その基準は単に普通の人間だからといった表面的な部分ではなく、実質的な部分、即ち敵のインパクトがあるか否かで分けていくこととする。

ここでの敵のインパクトの定義は、四つが挙げられる。それは、超人的な能力、高い戦闘能力、異形の外見、カリスマ性である。

まず、超人的な能力と戦闘能力は潜在的なものではなく、あくまでも目に見えるもののみが適用される。なぜなら、潜在的なものであれば敵にあまりインパクトを与えないからである。例えば、本文では対象外だが「暗黒タマタマ」の悪の親玉の玉王ナカムレは自分の心を読まれないように「心に鍵をかける」ことができるという、超人的な能力を持っているが、それによって観客は玉王ナカムレを超人という印象を受けることはないだろう。それは、あくまでも潜在的であって目に見える能力ではないからである。こういった定義に当てはまるキャラクターは、例えば「金矛の勇者」のダークらが当てはまる。ア法という魔法のような能力を持ち、現実離れした変身能力を有するからであり、それは観客の目にもはっきりと認識することができる。

高い戦闘能力についても、ダークらは少なくとも並みの人間とは並はずれた戦闘能力を持っていることが分かる。他にも、「3分ポッキリ」の怪獣たちもこれに当てはまるであろう。

続いて異形の外見であるが、これは見た目が普通の人間でない事である。例えば、先に挙げた「金矛の勇者」のダークや「3分ポッキリ」の怪獣らはこれにも該当すると言える。また、「ヤキニクロード」のスウィートボーイズのボスも当てはまると言えるだろう。古代ローマ帝国の外見と、容姿などの印象からして普通の人間の外見とは言えないと思われる。

最後のカリスマ性は、その人物がどれだけ多くの部下を従えているかのような印象を与えているかである。例えば、「戦国大合戦」の高虎はこれに当てはまりそうだが、実際はそうではない。確かに、2万以上もの兵隊を従えているが、彼らが直接高虎に従い、彼のカリスマ性を明確に描いているシーンが存在しないからである。高虎は数人の参謀や護衛らを従えているような描写でしかない。

カリスマ性に該当するのは、例えば「踊れアミーゴ」のアミーゴスズキが当てはまる。コンニャクローンというクローンではあるが、大勢の部下を従えて踊らせる描写が存在するからである。また、みさえのコンニャクローンの始末を命じる、アミーゴスズキが初めて登場したシーンでは、神秘性のある印象を与えている。そのため、このカリスマ性は神秘性とも置き換えることも可能かもしれない。この初登場のシーンでは、この人物が一体何者かが正体不明の段階であり、高虎と比べてもカリスマ性を放っているという印象を与える。正体をさらけ出さない事がカリスマ性を維持する一つの手法だからである。

しかし、敵に関する描写で重要な点はもう一つ存在し、それはいつ登場するかである。ただし、この場合の敵というのはあくまでも敵の親玉のみを指している。なぜなら、例えば早く敵の親玉が登場して素性が分かれば、その敵の組織などが大体分かるであろうし、部下や雑兵ばかりで親玉がいつまでも登場しなければ、その敵の組織などはなかなか分からないという傾向が、「オトナ帝国」以降の作品では顕著だからである。

例えば、「オトナ帝国」では親玉に当たるケンとチャコが早くから登場し、彼らの牛耳るイエスタディ・ワンスモアについてかなりの事が分かるようになっている。一方、「ヤキニクロード」ではスウィートボーイズのボスはなかなか登場せず、部下が早くから登場していても、そもそも彼らが何のために野原家を狙うのか、彼らが何を目論んでいるのかが最後の方まで分からない。最後にボスが登場して、ようやく野原一家の声を求めており、熱海サイコという機械を使っての陰謀が明かされる。このように、敵の親玉がいつ出現するかも、ストーリーを左右する非常に重要な要素である。

以上、作品の興行収入を分ける要因として、主要な登場人物の精神状態を基準にした日常と非日常の区別、および超人的な能力、戦闘能力、異形の外見、カリスマ性という4つの特徴に当てはまる否かによる、普通の人間と現実離れした人間もしくは人間以外の生物の区別、いつ敵の親玉が登場するかについてを述べた。

ここでこの三つの重要性を改めて述べると、日常と非日常の区別は作品のストーリー展開において極めて重要な働きをしており、この二つのシーンのバランスをどうとるかで作品は面白くもなり、つまらなくもなる。敵の描写については、敵との戦いがストーリーの基盤をなす劇しんにおいて、いかなる敵が登場し、その敵の強さや特徴、そして敵の親玉が登場するタイミング等が話の流れに対してどのようにバランスをとるかで、作品の面白さが左右されるからである。

これら三つの重要な要素が、各作品ではどのように描写されているのかを以下に論ずる。まず日常と非日常について、次に敵の描写と登場するタイミングについて述べることとする。



「オトナ帝国」の描写

「オトナ帝国」は非日常から日常という流れである。つまり、映画編でも述べた事があるが、この作品はいきなり非日常に突入している。冒頭の大阪万博のシーンは20世紀博という敵の牙城であり、ここでみさえとひろしだけでなく大人たちは、風間君の指摘しているとおり異常にのめり込んでいるシーンが描写されている。

つまり、敵に洗脳されているという事から、既に日常を逸しているわけである。またしんのすけは当初そうではないが、風間君はこの事態を深刻に受け止めている。このように、大人と子供の両方の精神状態から既に非日常の状態に入っていると言える。そして、このような状態は最後の方まで続き、ケンとチャコの野望を食い止めた後、再び日常へと戻り、野原一家らは家へと帰るわけである。

敵のケンとチャコであるが、劇中での描写を見る限り、明らかに普通の人間であり、インパクトは無い。超人的な能力、戦闘能力、異形の外見、カリスマ性とどれも持ち合わせているとは言えない。カリスマ性に関しては解釈次第で当てはまるかもしれないが、そもそもこの二人が大勢の人間に崇められているという描写が存在しているとは言えない。最初に登場するシーンで、ケンが指示を出すシーンがあるが、一つの組織の代表者のようなもので、あくまでも上に立つ人間という範疇に留まっていて、カリスマ性を発揮しているは言い難い。

しかも、その後のシーンでは、夕日町の住人として、完全に庶民の中に埋没している。ここからでも、カリスマ性のある人物とは到底言えない。これは、イェスタディ・ワンスモアの戦闘員たちも同じであり、特に何か特殊の能力を持っているわけでもなく、あくまでも普通の人間としての能力を駆使してしんのすけらを捕まえようとしている。

ただし、異形の外見をした別の部下も登場していると考えられる。それは、洗脳された時のひろしやみさえである。ひろしやみさえは特撮のヒーローや魔法少女の格好をして、しんのすけたちを捕えようとするシーンがある。ここから、部分的もしくは末梢的にはインパクトが存在しているとも言えるわけである。

また、親玉に当たるケンとチャコがいつ出現しているかであるが、言うまでもなく非常に早い段階で登場している。ここから、彼らの野望もまた早くから明らかになっている。



「戦国大合戦」の描写

「戦国大合戦」は日常から非日常という流れである。しかし、日常のシーンはおよそ半分を占めており、通常の劇しんの流れであるわずかな日常から始まり、続く非日常が大部分を占め、最後にわずかな日常で終わるという描写とは全く異なるものである。この最初の日常はしんのすけが戦国時代にやってきても続くものである。

既に述べたが、しんのすけは戦国時代に来てしまった事に対して取り乱したり不安を感じたりはしていない。それまでの、日常の生活と変わらない態度である。建前上は既に非日常に突入しているものの、実質上は日常のシーンが非常に長く描かれている。その後、ひろしたちも戦国時代に来ると、彼らは現代に戻れず戦国時代でいることに不安を感じ、彼らの精神状態から非日常に突入したと言える。

さらに、ラストのシーンでは、しんのすけは空を見て又兵衛の遺品である刀を掲げていることから、戦国時代にいるという精神状態にある。なぜなら、これは前半に見せていた日常のものとは明らかに異なる。しんのすけら野原一家は戦国時代での又兵衛らの想いを馳せ、それは日常の生活で得られるものではなく、戦などの苦難を乗り越えてきたから深まった絆によるものであるとも言える。つまり、「戦国大合戦」は建前上日常に戻ってはいるものの、実質上は非日常の状態でラストを迎えるという極めて特異な作品でもある。

敵である大蔵井高虎は、前述したように普通の人間であり、やはりインパクトは無い。超人的な能力、高い戦闘能力、異形の外見、カリスマ性のどれも持ち合わせている描写は存在しない。確かに、2万以上の兵隊を率いているという客観的事実の存在からカリスマ性はあると言えそうだが、そもそも2万以上の人間が彼を直接崇め、従うシーンは存在しておらず、彼がカリスマのある人間であるという印象を与えているとは言い難い。言いかえれば、兵隊の数は高虎のカリスマ性から分離してしまっているのである。そして、兵隊たちもまた、普通の人間であるのは明白であろう。

高虎は劇中ではかなり遅くに登場しているが、遅いだけではなく、そもそも高虎が敵になる事が判明するのも非常に遅い。つまり、「戦国大合戦」は一体誰が敵なのかがなかなか明らかにならない作品なのである。通常であれば、かなり遅くに敵の親玉が登場していても、それ以前にその敵の組織についての描写や伏線など、間接的に親玉の存在が示唆されている。

例えば、「ジャングル」では親玉のパラダイスキングが登場するのはかなり遅いが、その前のサルによって大人が拉致されるなど、ここでの非日常を引き起こした元凶がパラダイスキングであり、そこから冒頭のサルのシーンはパラダイスキングとのつながりがある。しかし、「戦国大合戦」では、例えばしんのすけが戦国時代にやって来た直後に見た戦闘の場面は、高虎の軍ではなく、彼と直接つながりがあるものとは言えない。

高虎が敵になると考えられる最初の描写は、康綱が娘の廉姫に来ていた高虎との縁談を断り、それを廉姫が戦になるのではと懸念するシーンである。日常と非日常だけでなく、このような敵の登場のさせ方からも、「戦国大合戦」は他の作品に比べて極めて異色的だと言える。



「ヤキニクロード」の描写

「ヤキニクロード」は、日常から非日常、そしてまた日常に戻るという劇しんの従来の展開である。冒頭の貧相な朝食と夕食の焼肉を見せつられる日常から、突然ボスの弟と堂ヶ島少佐が入ってくるというシーンから非日常が始まり、最後に自宅へと帰り焼肉にありつくという日常に戻るとわけである。非日常のシーンでは、野原一家が指名手配されて、お尋ね者となってしまったために、特にひろしやみさえの精神状態も尋常なものではなくなってしまっている。

敵の描写についてだが、堂ヶ島少佐も下田も天城も普通の人間であると言える。超人的な能力、高い戦闘能力、異形の外見、カリスマ性のどれも持ち合わせているとは言えない。ただし、ボスやその直属の部下たちになるとどうであろうか。ボスは異形の外見とカリスマ性が、彼の直属の部下は異形の外見が当てはまると考えられる。

「戦国大合戦」での高虎や兵士の格好は戦国時代ではごくありふれたものであり、当時の風俗に鑑みれば特に不自然ではないのに対して、「ヤキニクロード」のボスらの古代ローマを思わせる格好は、現代日本においては明らかに不自然であるからである。また、ボスは大勢の部下を率いており、自らが舞台に立って歌を唄い、直接的な描写としてそれを大勢の部下たちから喝采を浴びるシーンなど、カリスマ性が明確に描かれているシーンが登場している。これら点から、「ヤキニクロード」の敵はインパクトがあると言って良い。

一方で、ボスの登場は非常に遅い。堂ヶ島少佐など部下はかなり早くから登場している一方、ボスはそうでないことから、声が原因で野原一家が終われていることや、熱海サイコという機械を使おうとする、ストーリーの核心に触れる部分は最後まで伏せられている。



「カスカベボーイズ」の描写

「カスカベボーイズ」のストーリー展開は、日常から非日常、そして非日常に戻るという一見すると劇しんのオーソドックスな展開を踏襲しているかのようだが、実際は「戦国大合戦」と同様に、最初の日常は非常に長い展開であり、日常のシーンは劇中の半分以上を占めている。野原一家が映画の世界に入った当初は、その世界に驚き戸惑っており、ここから厳密に言えば、最初の日常には非日常がわずかに挿入されており、また中盤においてしんのすけとみさえがジャスティスに鞭打たれるシーンもある。しかし、これらのシーンは日常の中に挿入されたほんの一時的な非日常にすぎない。野原一家はマイクとの出会いを経て、その世界のジャスティスシティの住人として暮らしていくことになると、彼らはその世界に対して戸惑うことはなくなり、日常の生活を変わらない精神状態で送るようになる。

後半になってから太陽を動かし、オケガワのパンツを履くシーンになると、いよいよ本格的な非日常に突入することになるが、これは「戦国大合戦」の戦に当たるシーンと言って良いだろう。最後に、映画の世界から戻った時、野原一家やかすかべ防衛隊の面々は再び日常に戻ったというわけである。ここで、つばきに対する未練からしんのすけの精神状態はまだ非日常なのではないかという疑問もあるかもしれないが、それはシロの登場によって一切が払拭され、こうしてしんのすけも日常に戻ったと言える。

ただし、最後の場面でひろしが映画館のドアを閉じる際、劇場を見つめているが、これはひろしがまだ非日常の精神状態でいることを示唆しているかもしれない。ただし、このシーンに関してはかなり広く解釈ができるだろうし、そもそも劇場を見つめるのを止めてドアを閉めた瞬間に、ひろしの精神状態は再び日常に戻ったという解釈が可能であろうから、やはり全ての登場人物が最後には日常に戻ったと言えるのである。

次に敵のジャスティスだが、超人的な能力、高い戦闘能力、異形の外見、カリスマ性のうち、異形の外見以外は全て持ち合わせていると言える。映画の世界はあくまでも西部劇であり、その世界で彼は西部劇ノ人間として普通の格好をしているので異形ではない。超人的な能力と高い戦闘能力だが、ジャスティスは人間離れした鞭の使い手である事が作中で描写されている。また、彼の操るロボットも、普通の人間の能力をはるかに凌駕したものである。ここで、ロボットのような機械や武器を果たして戦闘能力の一つとして数えるべきか否かの問題が発生してくる。

このロボットの場合、ほぼジャスティスの意思通りに動いており、動きもロボットというより普通の人間に近い機敏さを有している。このロボットは倒されても何度もすぐに立ち上がり、かつ木端微塵にされるまで動き続けている。ここから、ロボットとジャスティスは完全に一体化しており、ロボットの戦闘能力は即ちジャスティスの戦闘能力だと言って良い。

また、操るジャスティスもかすかべ防衛隊の攻撃を直接受けているにもかかわらず、ムチで撃退するなど、ジャスティス本人が常人の力を超えたかすかべ防衛隊を追い詰めさえしている。ここからもジャスティス本人が常人以上の戦闘能力の持ち主である事が分かる。

さらにカリスマ性であるが、ジャスティスは部下から「荒野のヒーロー」ともてはやされ、またみさえが歌を披露しているところを乱入して、その際に邪魔された男が怒って拳銃を抜くも、ジャスティスと気付くとすぐに拳銃をしまって萎縮するシーンが出てきて、ジャスティスがいかに部下たちから恐れられているかが明確に描写されている。こういったカリスマ性を直接描いているシーンは、例えば「オトナ帝国」のケンや「戦国大合戦」の高虎には存在せず、ジャスティスはカリスマ性から見てもインパクトがある敵であると言える。

さて、このジャスティスはかなり早い段階から登場している。そして、ジャスティスの悪事である住人たちを強制労働させるという場面も早くから登場しているが、ジャスティスだけ知っている秘密である映画を終わらせる方法はかなり後にならないと分からない。ただし、立入禁止区域の存在や映画の世界にやってきて間もない野原一家が見た巨大な扉など伏線が様々な場面に存在していることから、一概に最後まで分からないとも言えない。



「3分ポッキリ」の描写

「3分ポッキリ」の日常と非日常の描き方は、一見すると日常と非日常の繰り返しのようであるが、登場人物の精神状態の観点からすると大きく異なっており、日常から非日常、そして日常という流れになる。ただし、この流れは「カスカベボーイズ」と同様、最初の日常が劇中の半分以上を占める、非常に長いものである。これは、野原一家が怪獣を倒す事に対する気持ちが楽しみであるシーンが大部分であり、このような精神状態から日常の段階にあるということである。

確かに、ひろしが最初に3分後の世界に来た時に、怪獣を目の当たりした精神状態から、「カスカベボーイズ」と同様、冒頭で非日常がわずかに挿入されていると言えるかもしれない。しかし、その後の野原一家はミライマンによる変身で怪獣を倒していくが、怪獣を倒す事が日常として存在している。なぜなら、怪獣を倒すことに緊迫感が全く存在せず、普段のストレスを解消する手段にまでなっており、本来の日常と密接に結びついているからである。

その後、ひろしとみさえが怪獣を倒す事にのめり込んで、仕事や家の事を全くしなくなってしまったことで、二人は日常には見られない精神状態へと移行していく。これは、自分たちのエゴのために日常の精神状態を放棄すると言う事から、「オトナ帝国」のものと類似している。こうして、作品は非日常へと入っていき、強い怪獣に怯えるようになると、ますます非日常へと入っていくこととなる。こうして、ゴロドロとの戦いに入る頃には、本格的な非日常と入っているわけである。

「3分ポッキリ」の敵は多くの怪獣であり、それらを送り出す存在が示唆されており、それが真の敵である。その真の敵がニセしんのすけマンであるが、超人的な能力、高い戦闘能力、異形の外見、カリスマ性のどれに該当するかと言えば、印象の点で言えば実はどれも当てはまらないのではないかという解釈が成立しうる。超人的な能力は確かに有しているが、そもそも怪獣が大勢表れてきた世界において、相対的な視点で言えば超人的とは言い難いからである。

そもそも戦闘能力にしても、しんのすけを追いかけるだけで、東京タワーに衝突してみさえにあっさりやられているため、これも当てはまるとは言えない。異形の外見だが、しんのすけそっくりという事から、これも異形という印象を与えているとは言い難い。カリスマ性にしても、大勢の怪獣がこのニセしんのすけマンを慕うような描写は全く存在しないため、これも当てはまらない。

もっとも、そうは言っても、あくまでも現実における日常の観点から言えば、超人的な能力と高い戦闘能力は少なくとも当てはまるだろうし、異形の外見にしても、主人公と瓜二つという事自体が正常でないと解釈するならこれもまた該当すると言える。表面的な印象と客観的な事実との間にこのような乖離が生じるのは、そもそもニセしんのすけマンは敵の親玉として機能していないからだという解釈ができるかもしれない。

ニセしんのすけマンは他の敵の親玉とは異なり、特に目立った行動はしておらず、敵の勢力の中心として動いているわけでもない。それでは真の親玉は誰かと言えば、それはゴロドロなのではないかと思われる。そして、ニセしんのすけマンを除けば、ゴロドロが唯一の敵なのではないかとも考えられる。なぜなら、ゴロドロよりも前に登場した怪獣は全て日常の状況下で倒されており、劇中における非日常の状況下で登場した怪獣はゴロドロのみだからである。ゴロドロは超人的な能力、高い戦闘能力、異形の外見、カリスマ性のうち、カリスマ性以外がすべて当てはまることは言うまでもないだろう。先のニセしんのすけマンの解釈の問題は措くとしても、「3分ポッキリ」の敵のインパクトは十分にあると言える。

一方で、ゴロドロもニセしんのすけマンも終盤に近くなってようやく登場している。ニセしんのすけマンの登場している時間が短いため、陰謀などに関しては明確に触れられておらず、野原一家からすれば単に目の前に現れた敵にすぎないと言える。つまり、キャラクターとしての深みが与えられていないわけである。



「踊れアミーゴ」の描写

「踊れアミーゴ」の日常と非日常の描き方は、コンニャクローンによって徐々に春日部が乗っ取られていくという描写から、通常の劇しんの作品のように単純に日常と非日常を割り切るのは難しいかもしれない。しかし、登場人物の精神状態の観点からすると、それほど複雑なものではない。

この作品は冒頭でよしなが先生がコンニャクローンに襲われるシーンから、既に非日常に突入しているかもしれないが、その後のシーンではコンニャクローンが存在しつつも、しんのすけらは普通に幼稚園や家庭での生活を送っているため、冒頭はあくまでも「カスカベボーイズ」や「3分ポッキリ」で、あるいは「戦国大合戦」でも廉姫が野伏せりらに襲われてオオマサたちが怯えるといった形で存在した、一時的な非日常にすぎない。

「踊れアミーゴ」では、コンニャクローンの襲われるという非日常による被害を受けた人間は登場しなくなるため、彼らの精神状態から、作品の非日常を決めることはできない。あくまでも、このような状況に気付き、日常の精神状態でいられなくなる人物によって非日常が描かれることとなる。そして、この作品において最も非日常の精神状態を露わにしているのが風間君である。風間君は自分の母親や幼稚園の先生がニセモノなのではないかという不安に駆られるようになり、風間君がそのような不信を強めることで、この作品は日常から非日常へと移っていくと言える。

つまり、冒頭の非日常を除くと、「踊れアミーゴ」は日常から非日常、そして最後には日常へと戻っていく。この作品のラストは、しんのすけがサンバを踊ると言って笛を吹くシーンで本編が終わっており、一見すると非日常の状態で作品が終わるかのような印象があるが、その後のエンディングで野原一家が再び日常の世界に戻り、自宅の修理などのシーンが映し出されていることから、エンディングにもつれこんで日常に帰った事が示されている。

「踊れアミーゴ」の敵の親玉に当たるアミーゴスズキは、超人的な能力、高い戦闘能力、異形の外見、カリスマ性のうち、異形の外見とカリスマ性が当てはまると思われる。アミーゴスズキは単にサンバを踊ることだけに長けており、特に戦闘シーンなどもあるわけではないため、超人的な能力と高い戦闘能力を持っている描写は存在しない。異形の外見の描写であるが、アミーゴスズキのサンバの格好は現代日本の日常からすると、決して目にしないというものではないが、それでも日常に溶け込められるほど自然なものとも言えないだろう。

これは、「ヤキニクロード」のボスの古代ローマを思わせる格好が、現代日本において不自然であることに似ている。さらに、アミーゴスズキ自身が自らをコンニャクローンで身を包んでおり、ジャッキーと瓜二つである顔を仮面で隠していること、つまり素顔を隠していること自体もまた不自然であり、この点も異形の外見をさらに強調させている。そして、コンニャクローンは超人的な能力と異形の外見が当てはまると言えるだろう。

カリスマ性の点を見れば、アミーゴスズキは大勢のコンニャクローンの人間を部下として従えており、自らが踊りの中心に立ち、周りにその大勢の部下を躍らせる描写から、カリスマ性が明確に描かれている。これも、「ヤキニクロード」のボスが大勢の部下を率いていて、自らが舞台に立って歌を唄い、大勢の部下たちから喝采を浴びるというシーンから、カリスマ性が明確に描かれているのに似ている。以上から、「踊れアミーゴ」の敵はインパクトがあると言える。

一方で、アミーゴスズキの登場は非常に遅い。劇中の半ばで、スーパーマーケットの中でみさえのコンニャクローンの処分を言い渡すシーンで初登場しているが、ここではまだ正体を表わしておらず、正体が明らかになるのは終盤になってからである。実はジャッキーの父親だったという本当の意味での正体が判明するのは最後の最後である。



「ケツだけ爆弾」の描写

「ケツだけ爆弾」は野原一家の沖縄旅行という日常から始まる。旅行と言うと非日常と思われるかもしれないが、沖縄旅行における野原一家は異常な体験に巻き込まれる事もないため、あくまでも日常の精神状態を維持している。そして、シロに爆弾が装着され、春日部の自宅に戻ってウンツィの隊員たちと出会う場面から非日常が始まるわけだが、その前の高速道路でのひなげし歌劇団との遭遇から既に非日常が始まっているとも考えられる。

しかし、野原一家はこの時点では事の重大さを認識していないため、精神状態はまだ非日常に入っておらず、この時のひろしやみさえが感じた不安はあくまでも日常の域を出ないものであると解釈ができる。そして、終盤になって爆弾の件など全てが解決し、野原一家は最後に自宅で再び日常の生活に戻るわけだが、この流れから「ケツだけ爆弾」は日常から非日常、そしてまた日常へ戻るという劇しんで最もオーソドックスな流れを汲んでいる。

さて、「ケツだけ爆弾」に登場する敵はウンツィとひなげし歌劇団の2つであり、本来ならば全く関わりの無い2つの敵が登場する事は、これまでの劇しんでは無かった展開である。ただし、ウンツィこそが真の敵であり、それはひろしやみさえがロケットの発射を止めるために、長官の時雨院時常と戦うシーンから見ても分かる。ひなげし歌劇団は全体を通しても、あくまでウンツィの行動を妨害する要素として、あるいはウンツィの補助的な存在としか機能していない。

その真の敵であるウンツィは、超人的な能力、高い戦闘能力、異形の外見、カリスマ性のうち、どれも有していないと思われる。長官の時雨院は、部下のゴリラやカバもそうであるが、一見すると確かに高い戦闘能力を持っているかのようであるが、あくまでも普通の人間の域をでないものであり、それを超えているとは考えにくい。少なくとも、普通の人間の限界を超えた戦闘能力が明確に描かれているシーンは存在しない。

ウンツィは政府機関の一つであり、彼らの服装なども特に派手なものではなく自らを露骨にアピールするようなものでもなく、長官の時雨院もあくまで政府の一機関の長として留まっており、部下たちに指示を出して彼らを動かしていても、あくまで組織の上下関係によるもので、崇められているわけではない。それどころか、しんのすけやひなげし歌劇団のお駒を一緒にロケットで飛ばそうとするのは時雨院の独断であり、ウンツィの隊員たちがそれに積極的に手を貸そうとするシーンも存在せず、あくまでも彼らは各々の倫理基準の範囲内において、時雨院の指示を従うにとどまっている。この時雨院と部下たちの間に生じた相違は、最終的に夕日町の住人たちの意思に裏切られた、「オトナ帝国」のケンとチャコとも類似している。ここから、時雨院はインパクトのある敵ではないことが分かる。

しかし、一方でもう一つの敵であるひなげし歌劇団に目を向けると、超人的な能力、高い戦闘能力、異形の外見、カリスマ性のうち、お駒は異形の外見とカリスマ性が当てはまる。「ヤキニクロード」のボスや「踊れアミーゴ」のアミーゴスズキと同じく、お駒らひなげし歌劇団の格好は現代の日本における日常では不自然である事、さらにお駒は先に挙げたボスとアミーゴスズキと同じく、大勢の部下に崇められており、喝采を受けていることから、カリスマ性も持ち合わせている。これらから、ひなげし歌劇団やお駒はインパクトがあると言えるが、彼女らはあくまでも作品における真の敵とは言えないため、「ケツだけ爆弾」は「オトナ帝国」と同様、部分的もしくは末梢的にインパクトが存在していると言えるであろう。

また、ウンツィもひなげし歌劇団もかなり早い段階で登場しており、彼らの行おうとする事も早くから明らかになっている。この点も「オトナ帝国」と類似している。



「金矛の勇者」の描写

「金矛の勇者」は日常の中に非日常がいくらか挿入されており、かつ段々と非日常へと突き進んでいくかのように見えるが、登場人物の精神状態から言えば、日常のシーンが非常に長いものとなっており、「3分ポッキリ」などに似ている。劇場版のオリジナルキャラクターを除いて、非日常を早くから目の当たりにしているのはしんのすけのみであるが、しんのすけはマックとの戦いなどを見ても、それほど狼狽しているわけではない。

これらのシーンを非日常の精神状態にあるとしても、しんのすけだけが非日常を目の当たりにするシーンはそれ以外の日常シーンと比べても少ない。それでは、年金問題や夫婦喧嘩などが深刻な問題として描かれているシーンは、非日常を描写しているかと言えばこれも否である。確かに、ドン・クラーイの世界の意識が流れ込んできているという説明が劇中でなされてはいるものの、一方でしんのすけが選ばれし者であるゆえ、その影響は野原家に及ばないことがマタの説明でなされているからである。

しかし、影響を受けないはずの野原一家も夫婦喧嘩などが深刻になっている描写があることから、夫婦喧嘩や年金など劇中で指摘されている世の中の問題は、ドン・クラーイの直接的な影響とは言えない。つまり、非日常ではなくあくまでも日常としての描写である。後に、年金問題が全て解決し、ひろしが重役になるなど世の中の情勢が一転するが、これに戸惑う野原家の様子から、明らかにドン・クラーイの影響がある。

つまり、この辺りから、非日常が本格的に始まっていると言えるが、劇中でもかなり後のシーンであるため、この作品における最初の日常はかなり長く、非日常は短いものになっている。そして、最後には幼稚園でしんのすけが自分の事を話しても誰も信用してくれないという、日常に戻ったシーンが描写されている。

敵の描写だが、親玉のダークは超人的な能力、高い戦闘能力、異形の外見、カリスマ性の全てを有している。ドン・クラーイの支配者であり、ア法という魔法のような術が使えて、外見もさることながら二つの肉体に分離するなど、日常の世界では見られない描写である。カリスマ性にしても、ドン・クラーイの住人らに崇められ、彼らを従わせるシーンが登場していることから、こちらも十分当てはまる。ここから、ダークはインパクトのある敵であると言え、それはマックやプリリンと言った部下たちも同様である。

さらに、ダークらは非常に早い段階で登場しており、金の矛や選ばれし者を探し出して、地球を乗っ取ろうとする彼らの野望も早くから明らかになっている。



描写のまとめ

「オトナ帝国」から「金矛の勇者」までの、日常と非日常の描き方と敵の描写についての考察を行ったかが、ここでこれまで述べてきたをまとめることにする。

まず、非日常が作品全体にかかってくる比率を見ると、「オトナ帝国」は比率が高く、「戦国大合戦」は非日常のシーンが遅いうことから比率が低い。「ヤキニクロード」は高く、「カスカベボーイズ」は低い。「3分ポッキリ」も低く、「アミーゴ」は高い。「ケツだけ爆弾」も高く、「金矛の勇者」は低い。

次に、敵のインパクト見るが、超人的な能力、高い戦闘能力、異形の外見、カリスマ性の4つの要素から点数化を行ってインパクトの度合いを見ることとする。「オトナ帝国」のケンとチャコは4つのうちどれも当てはまらないから、本来は0であるが、ひろしやみさえの格好なども考慮に入れると、0.3にはなるかと思われる。なお、0.3という数字自体は特別に意味があるわけではなく、あくまでも0とは言えないが1未満でもあるという事であり、ここは0.2でも0.4であっても良い。

「戦国大合戦」の高虎もまた、4つのうちどれも当てはまらないため、0である。「ヤキニクロード」のボスは、異形の外見とカリスマ性が当てはまるため2である。「カスカベボーイズ」のジャスティスは、異形の外見以外の、超人的な能力、高い戦闘能力、カリスマ性を持っており、3である。「3分ポッキリ」のニセしんのすけマンもしくはゴロドロは超人的な能力、高い戦闘能力、異形の外見、カリスマ性のうち、カリスマ性以外が当てはまるため3である。

「踊れアミーゴ」のアミーゴスズキは、異形の外見とカリスマ性が当てはまるため2である。「ケツだけ爆弾」の時雨院時常はどれもあてはまらないため、0である。ただし、ひなげし歌劇団のお駒が異形の外見、カリスマ性を持っており、真の敵とは言えない事、それでも「オトナ帝国」の洗脳されたみさえやひろしよりも大きな活躍をしている事も考慮に入れて0.7とする。「金矛の勇者」のダークは4つ全てに当てはまるため、4である。

最後に、敵の親玉がいつ登場するかについてである。「オトナ帝国」のケンとチャコは早くから登場しており、「戦国大合戦」の高虎は遅い。「ヤキニクロード」のボスも遅く、「カスカベボーイズ」のジャスティスは早い。「3分ポッキリ」のニセしんのすけマンもしくはゴロドロは遅く、「踊れアミーゴ」のアミーゴスズキも遅い。「ケツだけ爆弾」の時雨院とお駒は早く、「金矛の勇者」のダークも早い。

以上を、「勝ち組」と「負け組」の作品に分類して、表にすると以下のようになる。背景がピンク色の上の作品は興行収入が比較的高い「勝ち組」の作品であり、黄色の下の作品は比較的低い「負け組」の作品を表している。

表では、非日常の比率が高く、敵の登場するタイミングが早く、敵のインパクトがある場合にはプラスを、それぞれ逆の場合はマイナスを表記している。そして比例性においては、プラスとマイナスで、それぞれが合えば比例しているとみなし、合わなければ反比例しているとみなしている。なお、敵のインパクトが1未満の作品は、そもそも本来の敵がインパクトを持っていないことから、無しとみなしている。


作品名 興行収入 1:非日常の比率 2:敵のインパクト 3:敵の親玉が
登場するタイミング
比例性
(1:2)
比例性
(1:3)
比例性
(2:3)
ケツだけ爆弾 15.5億円 高い(+) 無し(−)
(0.7)
早い(+) 反比例 比例 反比例
オトナ帝国 14.3億円 高い(+) 無し(−)
(0.3)
早い(+) 反比例 比例 反比例
踊れアミーゴ 13.8億円 高い(+) 有り(+)
(2)
遅い(−) 比例 反比例 反比例
ヤキニクロード 13.5億円 高い(+) 有り(+)
(2)
遅い(−) 比例 反比例 反比例
戦国大合戦 13.0億円 低い(−) 無し(−)
(0)
遅い(−) 比例 比例 比例
3分ポッキリ 13.0億円 低い(−) 有り(+)
(3)
遅い(−) 反比例 比例 反比例
カスカベボーイズ 12.8億円 低い(−) 有り(+)
(3)
早い(+) 反比例 反比例 比例
金矛の勇者 11.6億円? 低い(−) 有り(+)
(4)
早い(+) 反比例 反比例 比例


表の考察

この表から分かる事は、「勝ち組」の作品はどれも非日常の比率が高い、つまり登場人物の精神状態が早くから非日常にさらされることで尋常ではなくなるわけである。逆に言えば、早くから登場人物を非日常の渦中へ放り込まなければ、観客の心を掴むのは難しいと言える。これも考えてみれば自然の話で、そもそも劇しんは普段のテレビアニメでは見られないような展開を、主に子供が占める観客は期待しており、日常の描写に比重を置くとそれだけで観客は遠のいてしまうわけである。

最もヒットしている「ケツだけ爆弾」と「オトナ帝国」、最もヒットしなかった「カスカベボーイズ」と「金矛の勇者」、両者には敵の親玉が早くから登場していると言う共通点がある。しかし、「ケツだけ爆弾」らは非日常の比率が高く、「カスカベボーイズ」らは低いと相違点がある。ここから、一つの仮説を導き出すことができる。

それは、敵が早くから登場することは、その敵が何を考え、しんのすけらにどんな災いが来るのかもある程度は予想ができ、それだけ観客を期待させる。そして、しんのすけらが早くから非日常に入っていけば、それはまさに観客の期待に沿うことになるが、なかなか非日常に入らなければ、観客の期待を裏切ることにつながる。

敵が早くから登場しているのに、日常ばかりを描写していると、観客はそのギャップに苛立ちを覚えるのではないだろうか。さらに、「カスカベボーイズ」も「金矛の勇者」も敵にインパクトが与えられている。特に、「金矛の勇者」の点数は4と高いものである。インパクトを持った敵が早くから登場していると、観客にはそのインパクトが非常に印象深く映る。

そして、観客がそのインパクトを登場した早さに比例して、できるだけ長く印象深く発揮するように要求する傾向があるのに、日常のシーンばかりが描写されていると、インパクトが十分に描かれず、その苛立ちはさらに大きくなるという仮説も成立しうるのではないか。例えば、「金矛の勇者」のダークは巨大な竜に変身し、2つの肉体に分離するといった能力を持っているが、どちらも作中において十分に生かし切れているとは言い難い。竜の変身は野原一家との戦いにおいては完全にやられ役となっており、2つの肉体は一見しんのすけを追い詰めてはいるが、却って自滅へとつながることとなり、また2つの肉体であるから、つまり1つの肉体では決してあり得ない有利な点が明確に描写されているとも言えない。「金矛の勇者」の興行収入が下落した要因の一つに、このような敵のインパクトが、日常の描写に重点を置いたがために、十分に描かれなかった事が挙げられると考えられる。

一方で「ケツだけ爆弾」と「オトナ帝国」がヒットしたのは、敵の登場するタイミングが非日常の比率と合い、それは早い段階においてであり、観客の期待に沿うものであったからであろうが、この他に敵の描写についても類似する点がある。それは、どちらも敵の親玉はインパクトのあるものではない普通の人間である一方、インパクトのある敵も脇役としての役柄でありつつも登場していることである。

そして、この点ではさらに別の共通点も存在する。それは、脇役の敵に当たるひなげし歌劇団と洗脳されたひろしとみさえは、後になってしんのすけらの味方に、つまり善へと転換している点である。ひろしとみさえは洗脳が解けたからであるが、ひなげし歌劇団も団長のお駒がロケットに閉じ込められてしまい、もはや爆弾にかまっていられない、ロケットから脱出するというしんのすけらの利害の点で一致するようになり、その行動のベクトルを爆弾の略奪という悪からロケットからの脱出へという善へと転換せざると得なかったわけである。これは、インパクトのある敵が善へと加勢してインパクトの無い敵に立ち向かうという構図だと言えるかもしれない。この構図では、インパクトの無い敵の方が大きな力を持っている、もしくは優位を保っているということになる。

そもそもインパクトのある敵というのは現実離れしていることでもあり、そこからインパクトが無ければより現実的な敵というわけで、そこから現実的な悪事がなされることで、観客にとってもより身近なものとなりうると思われる。特に、「オトナ帝国」と「ケツだけ爆弾」の悪事は、どちらも観客がある程度同意ができる、絶対悪と言いきれるものではない。21世紀に絶望したケンとチャコ、地球を破壊する爆弾を一匹の犬の命と引き換えに地球から除去しようとするウンツィは、それなりに大義名分を持っており、倫理的な観点からだと彼らの行為を止めるのはより一層難しくなる。洗脳が解けた後でも、何度も夕日町の匂いに惑わされそうになり、あるいはウンツィにシロを引き渡す事を一度は同意したひろしやみさえなどからでも窺える事である。

このような、物理的だけでなく倫理的困難さを伴う悪事に立ち向かうストーリーを明確に描いているのは、「オトナ帝国」と「ケツだけ爆弾」以外の作品には存在しないであろう。逆に言えば、インパクトが無い分を倫理的な部分で補っており、そこからより強力な悪を作り出しているわけである。そして、早くから非日常に突入し、これらの悪を存分に描き出した事が、「オトナ帝国」と「ケツだけ爆弾」がヒットにつながった一つの重要な要因になったという推測が導き出される。

「踊れアミーゴ」と「ヤキニクロード」はどちらも前作の興行収入は同じ13億円であり、前作の影響はどちらもほぼ同じである。つまり、宣伝などを除けば、最も類似した状況下で公開された作品であり、しかも両作品の興行収入の差は3千万円とそれほど大きな差がついていない。ここから、両作品は非常に似通った作品であると言えるだろう。実際、両作品の非日常の比率は高く、敵の親玉が登場するタイミングは遅く、敵はインパクトがあると、内容も非常に似通っている。

逆に言えば、このような内容の劇しんは13億5千万円から8千万円ほどになる傾向があるという仮説が導き出される。非日常に突入するタイミングが早く、その一方で敵の親玉がなかなか明かされない。そのため敵が何を狙っているのかもすぐには分からない。そして、ようやくインパクトのある敵の親玉が登場するという流れであり、この流れではそもそも敵の親玉の活躍は少なくなるが、その親玉の登場する時間が少ないわけだから、親玉はあまり作品には重視されないというとも言える。敵の親玉はそもそも他の作品に比べても存在感が薄いと思われる。それは、「ヤキニクロード」も「アミーゴ」も敵の企みが具体的に分かりにくいという指摘が存在する事からも言える。「ヤキニクロード」も「踊れアミーゴ」も、敵の悪事よりも、その事によって引き起こされる非日常としての現象や恐怖が観客を惹きつけているのかもしれない。

具体的に言えば、「ヤキニクロード」では野原一家の指名手配によって発生した逃走劇であり、「踊れアミーゴ」ではそっくりさんに入れ替わっていくというホラー現象である。敵の親玉や彼らの為す悪事の描写が少なく、具体性に欠ける側面がある分、それによって引き起こされる非日常の現象の描写を重視しているわけである。このような作品では、13億円台の後半に達するという事が分かる。

「戦国大合戦」と「3分ポッキリ」はどちらも13億円であるが、前作の興行収入がそれぞれ14億3千万円、12億8千万円という点から、潜在的な興行収入は「3分ポッキリ」の方が上だと言えるかもしれない。ただし、「戦国大合戦」公開当時のテレビアニメの視聴率は「3分ポッキリ」の頃よりもかなり低いものであって、それに考慮に入れるべきかもしれないが、それでも前作の差を見れば、「戦国大合戦」は1億3千万円減少に対し、「3分ポッキリ」は2千万円増加しており、1億5千万円もの差がある。こういった点からも、やはり潜在的な面では「3分ポッキリ」に軍配が上がると言えるだろう。潜在的には上だったと思われる「3分ポッキリ」は非日常の比率が低く、敵の登場するタイミングは遅い。

一方で敵にインパクトはあり、非日常の比率を除けば「ヤキニクロード」や「踊れアミーゴ」と同じである。しかし、非日常の比率が遅い、つまり日常のシーンが長いということは、敵の親玉の活躍も少ない上に、それによって伴う非日常の描写も少ないというわけである。しかし、敵の親玉が登場するタイミングも遅いという事は、「カスカベボーイズ」や「金矛の勇者」のように、日常から非日常へなかなか移らない事に対する苛立ちもそれほど起こらない。

もし、敵の親玉が先に登場させたら、彼らの活躍が早く見たいという作品に対する観客の期待を余計に膨らませることになるからであり、敵の親玉がなかなか登場しなければ、観客にそのような期待を強く持たせなくても済むわけである。これで、観客の苛立ちはそれほど大きくなるわけではない。日常が長く、敵の親玉も登場しないというこの内容は、普段の日常を描いたテレビアニメの内容と近い形態となっているとも言える。

そして、最後にインパクトのある敵の親玉が登場することで、劇場版ならではの楽しみをわずかながらにしろ享受することができるわけである。しかし、「戦国大合戦」は敵のインパクトさえ存在しない。日常のシーンが長く、敵の親玉が登場するのも遅い、そしてその敵のインパクトが無いというのは、最も現実に近い展開であるとも言え、即ちテレビアニメの内容に最も近いということでもある。世間からの評価はともかく、「戦国大合戦」があまりヒットしなかった要因の一つに、最も劇場版らしからぬ展開があったのではないかという仮説が成立し得る。劇場版から最もかけ離れた内容であったがゆえに、観客を引き付ける事が難しかったのかもしれない。

「カスカベボーイズ」と「金矛の勇者」については既に述べたが、要するに非日常の比率が低いのに、敵の登場するタイミングとインパクトがあるというギャップが却って観客の期待に裏切るという形として作用し、「戦国大合戦」のような最も劇場版らしからぬ展開以上に観客離れを引き起こしたと言えるわけである。

ただし、「カスカベボーイズ」の興行収入は「戦国大合戦」よりも低いが、前作との差を見ると「戦国大合戦」は前述したように1億3千万円なのに対して、「カスカベボーイズ」は7千万円である。このように差が2倍近くもある事から、潜在的な興行収入は「カスカベボーイズ」の方が上なのかもしれないが、これは「カスカベボーイズ」の敵の親玉のジャスティスが日常の中でもかなり高い頻度で登場しては、みさえやしんのすけを鞭打つなど、日常の中に精神状態を非日常にさせることで存在感を保っていたことから、観客苛立ちの度合いもそれほど高くなかったのが要因に挙げられるかもしれない。言いかえれば、一種のガス抜きのようなシーンもあったと言えるわけである。

「金矛の勇者」のダークは日常の世界には登場せず、あくまでもドン・クラーイの世界のみで指示を出しているだけである。特に、ドン・クラーイの世界では日常の登場人物が現れず、故に彼らの精神状態で日常か非日常かを測ることは不可能であり、誰も非日常に戸惑ったりおびえたりしていないことから、これらもやはり日常のシーンであると判断ができる。このような作風において、「金矛の勇者」があまりヒットしなかったのも、当然の事だったのかもしれない。



興行収入の推察

さて、このような法則から、もし過去の劇しんの作品が2008年現在において初めて公開されたとしたら、一体いくらになったかを測定してみることにする。これは、これまでの受動的な考察から導きし出した法則を基に、能動的な考察を行う事は、今後の劇しんの考察の一助になるかもしれないという筆者に考えによる。

しかし、例えば「ヘンダーランド」のように、登場人物の精神状態が何度も変化して、つまり日常と非日常の入れ替わりが激しい作品も存在する。「ヘンダーランド」のストーリー展開は「金矛の勇者」に近いかもしれないが、主人公のしんのすけが敵に対する恐れは「ヘンダーランド」の方がはるかに大きいため、非日常が日常に挿入されているという形式になっていると思われ、非日常の比率などを判断するのが困難な作品もある。

そこで、劇しんの最大のヒット作である「ハイグレ魔王」と、興行収入立て直しのきっかけとなった「ジャングル」の2作を考察する。この2作を本文で導き出した法則にあてはめるのはそれほど難しい事でもないからである。

まず、「ハイグレ魔王」の非日常の比率は低い方に属する。これは、劇中の半分が日常の生活で占めていることからも明白であろう。さらに、敵の親玉が登場するタイミングも遅い。冒頭でハイグレ魔王が既に登場しているが、この時点では正体が明らかになっていない。正体が明らかになるのは後半以降である。ここから、登場するタイミングも遅いわけである。

敵のインパクトだが、ハイグレ魔王らは宇宙人であり、地球の人間が持っていない能力の持ち主である事も判明しており、また外見も人間には近いかもしれないが、ハイグレやTバックの姿など、明らかに普通の姿ではない。また、ハイグレ魔王はハラマキレディースやTバック男爵からも怖れられており、地球を危機に陥れようとする張本人であるという描写から、カリスマ性も持ち合わせている。ここから、超人的な能力、高い戦闘能力、異形の外見、カリスマ性の4つ全てに該当することが分かる。

非日常の比率は低く、敵の親玉が登場するタイミングは遅く、敵のインパクトはある。つまり、「ハイグレ魔王」は「3分ポッキリ」に最も近い作品であり、「戦国大合戦」ほどではないものの、日常にかなり重点を置いている。以上、「ハイグレ魔王」は2008年に公開されたら、13億円程度にとどまると推定できるわけである。

次に、「ジャングル」であるが、かなり早い段階で大人たちがサルに連れ去られていることから、非日常の比率は高い。そして、敵の親玉であるパラダイスキングが登場するのは劇中では後半以降であり、こちらは遅い。

敵のインパクトは、パラダイスキングはかなり高い戦闘能力の持ち主であるが、あくまでも生身の人間であり、超人的とは言い難いであろう。また、彼の姿は日常の日本において不自然なものであり、その派手な恰好から「踊れアミーゴ」のアミーゴスズキに似ている。そして、大勢のサルに崇められていることから、カリスマ性もあるとみなして良い。以上、超人的な能力、高い戦闘能力、異形の外見、カリスマ性のうち、超人的な能力以外は全て当てはまり、点数は3となる。

日常の比率は高く、敵の親玉が登場するタイミングは遅く、敵のインパクトはあるという事から、「踊れアミーゴ」や「カスカベボーイズ」に類似した展開である。特に、大人が突然連れ去られて、それに伴う子供の不安などは、そっくりさんと次々に入れ替わって、不安を覚える風間君らを描いた「踊れアミーゴ」と似ている。また、パラダイスキングが没個性的で大勢のサルを従えているのは、アミーゴスズキが没個性的な大勢のコンニャクローンを従えているのにも似ていると言って良いだろう。こういった点を踏まえると、2008年に公開した場合、「ジャングル」の興行収入は13億5千万円から13億8千万円、特に13億8千万円にまで到達する可能性が高いと推測できるわけである。



ヒットにつながる作品

以上から判明したいくつかの法則を基に、いかなる内容の作品が最もヒットするのかを考察してみることとする。

まず、日常と非日常の展開であるが、話が始まってすぐに非日常に移るべきである。劇しんに対して観客は、非日常の世界を期待しているからである。そして、この場合の非日常とは周囲の環境ではなく、あくまでも登場人物の精神状態を基準にしたものでなければならない。

そして、その精神状態を劇中の終盤近くまで維持させるべきである。途中で日常に戻したら、またすぐに非日常になれば良いが、そうでなければその非日常はほんの一時的なものに過ぎなくなってしまい、水の泡となるので注意が必要である。

次に、敵の描写についてだが、敵の親玉はなるべく早く登場させた方が良い。そして、その親玉が何を企んでいるかを早く観客に知らせるのが重要である。そのように企みの存在が明確になっているのを前提として、しんのすけらを悪に立ち向かわせるというストーリー展開が、最も観客の期待するものと思われるからである。

そして、この敵の企みにはある程度の大義名分、観客の同意できる部分があり、絶対悪にしない方が良いかもしれない。そうすることで、敵を倒すのに物理的のみならず倫理的困難さも伴い、しんのすけらをより危機に追い込むという展開が可能になるからである。また、単純な善悪を描くというわけではないため、作品自体にも深みが増すであろう。

ここまでの作品の法則に則っていれば、敵のインパクトは無くても良いが、それは敵にインパクトを持たせるなという事ではない。本文における考察では、インパクトが無くでも十分ヒットすることが判明しているが、インパクトがあったらどうなるかについては不明である。インパクトがあって現実離れした非日常にふさわしい敵によってさらなるヒットが望めるかもしれないし、現実離れした要素が重なることが却って逆効果につながるかもしれない。この辺りは不確実であるため、確実にヒットに導きたければインパクトを持たせない方が良いだろうが、インパクトを持たせるという冒険に乗り出すもの悪くないと思うので、この点に関しては今後の劇しんに期待したい。

ただし、インパクトの無い敵と並行させて、インパクトのある敵を別に登場させるやり方は有効である。この場合のインパクトの度合いは高い方が効果的であろう。そして、インパクトのある敵は善へと転換し、しんのすけらと共に、インパクトの無い敵に立ち向かうという構図が非常に効果的である。これは、インパクトの無い敵がそれだけ強力になり、それだけ現実的な側面においても倒すのが困難であると示すことができて、観客を惹きつけられるであろうからだと考えられるためである。

次に、ヒットしない作品とはいかなるものかについて述べることにする。まず、日常と非日常については、日常をできるだけ長引かせるのである。そうすることで、非日常を求める観客の期待を裏切ることにつながるわけである。ただし、それでも終盤になるべくインパクトのある敵の親玉を登場させれば、ある程度の観客の期待に応えることはできる。

敵にインパクトも無ければ、最も劇場版らしからぬテレビアニメに近い内容になり、あまりヒットは望めなくなる。ただし、テレビアニメに内容を近くする事よりもやってはいけない事があり、それは日常が大半を占める一方で、敵の親玉を早く登場させて、かつ敵にインパクトを持たせるという方法である。敵の企みが明らかになり、しかもインパクトのある事が早い段階で分かっているのに、なかなか非日常へと突入しないでそういった敵と真っ向から立ち向かわせなければ、非日常の比率と敵の親玉が登場するタイミングとインパクトの間に生じるギャップによって、却って観客を苛立たせる結果へとつながりかねないからである。

ここから、作品をヒットさせるために第一の条件が早く非日常に入るという事が判明するわけで、これを守ればある程度のヒットは保証される。敵の親玉がなかなか登場せず、敵の企みが分かりにくくても、そうでない作品よりは落ちるであろうが、それでも観客の期待にはある程度応えることができる。

逆に非日常の比率が低いと、その時点で既にあまりヒットしないと考えた方が良い。そうした悪条件下で少しでもヒットにつなげるならば、最後の方でインパクトのある敵を登場させて、その敵にはあまりキャラクターとしての深みを与えるべきではないだろう。最後に観客の期待に応えるというわけである。あるいはインパクトのある敵も登場させず、本来の劇場版に全く反した作品にしてしまうのも良いかもしれない。

非日常の比率が低いのに、いたずらにインパクトのある敵を早くから登場させるという、劇場版の作風の観点からするとある意味最も中途半端なこの方法は、一番採るべきではない。観客の期待に沿えないどころか、却って彼らを苛立たせる結果につながりかねないからである。

もっとも、今まで挙げてきたこのようなヒットしない作風をあえて採用する場合もあるだろうし、例えばそれは「戦国大合戦」などに言えるかもしれない。しかし、監督をはじめ制作スタッフがよほどその内容に思い入れがない限り、そのような作品作りはなるべく避けるべきであろう。

最後に、劇しんはしばしば泣けるという評価を受けるが、感動シーンを入れるのは効果的かについて簡潔に述べる。今回取り上げた8つの作品のうち、最もヒットしている「ケツだけ爆弾」と「オトナ帝国」は感動作だと言われている。

また、「負け組」の作品の中でも、比較的ヒットさせられた「戦国大合戦」も感動作であるが、それはあまりヒットさせられなかった「カスカベボーイズ」も同様である。ただし、「カスカベボーイズ」は同じ法則に則った「金矛の勇者」を大きく引き離しているのも事実である。

以上の点を考慮すると、感動作に仕上げた方がよりヒットすることが望めるであろうが、感動作には「勝ち組」だけでなく「負け組」の作品も含まれている事から、あくまでも余得として考えるべきである。感動作というだけでヒットにつなげられると考えてはならない。作品がヒットさせられるか否かは、前述した法則を守るかにかかっている。その上で、もう少しヒットさせたいと思ったら、法則に支障を与えない範囲で加えれば良いのである。



あとがき

かつて、比較作品論で「オトナ帝国」は「ジャングル」に類似しているとい書いたが、本文では「オトナ帝国」は「ケツだけ爆弾」に、「ジャングル」は「踊れアミーゴ」と「ヤキニクロード」に似ていると論じている。円錐は真横から見れば三角形だが、真下から見れば円であるように、同じものであっても、見る方向を変えれば異なった形に見える。

これは、劇しんの作品においても同様で、「オトナ帝国」は「ジャングル」に類似した作品でもあれば、見方を変えれば「ケツだけ爆弾」に類似しているとも言え、また単純に大人や世間の一般的な評価からでは、「戦国大合戦」に類似しているとも言える。このように、一つの作品は複数の顔を持っており、単純に名作だとか駄作だとか評価できるものではないという事を伝えようというのも、本文を書いた目的の一つでもある。

ただし、冒頭でも触れたように、本文は元々2008年に公開された「金矛の勇者」の興行収入がなぜ急落したかを考察することが目的であったが、考察するうちに劇しんには実は何らかの法則が存在するのではないかと考えるようになり、その結果いくつかの法則を導き出すにいたったわけである。ここで断っておくと、その法則に使用している非日常の比率や敵の親玉の登場するタイミング等、その定義の仕方は筆者の納得がいかなければ一般的と思われる考えは排して、自分の納得のいくような形に置き換えている。

もちろん、その際に誰にでも納得していただけるように、できるだけ客観的な視点から行ってはいるが、筆者が主観的に考察した部分も含まれている可能性も否定できない。そもそも、完全に客観的に描写することなどおそらく不可能だと思うから、筆者の主観が本文に限らず他の考察などにも反映されているだろうが、本文は筆者の主観が最も反映されている可能性が高い。それでも、できるだけ客観描写に徹したつもりではあるからご承知願いたいと思う。

また、本文でも書いたように、例えば「ヘンダーランド」の非日常の比率を導き出すのは難しく、このように全ての作品に十分適応できるものではないかもしれない。そもそも、非日常の比率などはあくまでも一つの側面に過ぎず、他にも様々な要素が興行収入を左右していると考えられる。それらは本文ではとても取り扱えるものではないが、機会があったらまた別の側面での考察をやってみたいとも思う。

今後、何年にも亘って劇しんがさらに制作されていけば、ますます複雑な考察を行うことが要求されるであろうが、それだけ幅広い考察も可能となってくるわけでもある。今までのように、今後の劇しんにも大きな期待をかけていきたい。



トップページ