比較作品論



INHALTSVERZEICHNIS


はじめに

子供向けの作品づくり

子供向けとしての「オトナ帝国」

「失敗作」としての「戦国大合戦」

アイデンティティの模索

未練の有無

結び






はじめに

中国の文豪、魯迅は「ものは比べてみなければ分からない」というような言葉を残している。確かに特定の物事を判断するのに、他と比べてみることで、初めてその良し悪しが分かり、また大きな理解を得られることが多く、相対評価を下すのには必要不可欠な行為である。その事はクレヨンしんちゃんにおいても同様である。劇場版作品で、各作品をどのように評価したり論じたりするのに、他の作品との比較を行うことでより深い見方をすることができるようになると思われる。

劇しんにおいて、「オトナ帝国」と「戦国大合戦」は、他の作品に比べて非常に高い評価を受けている。そして、この二作品はしばしば大人のファンから大きな評価を受けており、両者ともに大人の観客が多く劇場に詰めかけたと思われる節がある。確かに、両作品ともに興行収入は全作品の中でも比較的上位に位置し、特に「オトナ帝国」は当時第3位という興行収入であった事から、大人の観客が多く劇場に駆けつけたと考えるのも、決して不自然ではない。

しかし、劇場版クレヨンしんちゃんにおける誤謬で示したように、実際は成人の観客数はこれまでの作品の中でも最も低い。また、両作品を比較すると、全く異なる作品であることが分かる。先に結論を述べると、「オトナ帝国」は前作の「ジャングル」に類似しており、「戦国大合戦」は「カスカベボーイズ」に類似していると言える。

「オトナ帝国」と「戦国大合戦」はしばしば一緒になって取り上げられるが、両作品が類似しているというのは、あくまでも表面的な見方であり、本質的には誤っていると筆者は考えている。本文の目的は「オトナ帝国」と「戦国大合戦」を中心に、両作品と類似していると思われる作品と比較し、各作品における本質的な部分を見出していくことである。なお、本文では既に当サイトで述べた事と重複している部分も複数あるが、新たな考察を行う際にあえて再び書くこととした。



子供向けの作品づくり

劇しんの第7作目「温泉わくわく」がマニアックな大人向けの作品となり、興行収入が歴代で最低を記録してしまった事の反省から、次回作の「ジャングル」では本来の観客層である子供たちを意識して製作され、その結果興行収入が回復に向かったというのは、広く知られた事実であると思われる。そして、次回作の「オトナ帝国」では再び大人向けの作風に転じ、こちらは「温泉わくわく」のように、一部の大人だけでなく、日本中の大人を魅了する普遍性の高い作品となり、その結果興行収入が歴代の3位になった言われており、筆者もかつて映画編の考察でそのような事を書いたことがある。

しかし、劇場版クレヨンしんちゃんにおける誤謬からでも分かる通り、実際には「オトナ帝国」の観客において、大人の比率は(当時の)これまでの作品の中で最も低いものとなっている。確かに、同作品が日本中の大人を魅了するに足る、高い評価を受けるようになったが、それはあくまで公開後のことで、実際に公開時に劇場に観た大人はそれほど多いわけではない。

ここから、一つの問いが導き出される。「オトナ帝国」は他の劇しんに比べて、子供向けの作品でもあると言えるのではないかというものである。興行収入が歴代3位というのは、子供の観客によって成しえたわけで、作品に子供を引き付ける要素が存在するのがむしろ自然な考えである。

そして、「オトナ帝国」に存在する子供向けの要素は「ジャングル」と類似したものであり、そこから「オトナ帝国」と「ジャングル」の内容そのものが類似していることから、両作品で劇しんにおける一つの枠組みを形成することが可能になると考えられる。以下、両作品の類似性を論じていくことにする。

「ジャングル」はパラダイスキング率いるサルたちによって、大人が連れ去られ、子供だけで解決しなければならない状況に追い込まれる。この展開は、明らかに原監督の前3作、「暗黒タマタマ」、「ブタのヒヅメ」「温泉わくわく」とは全く異なるものである。これらの3作品では、それぞれ珠由良族、SML、温泉Gメンという味方が登場し、そこにはローズ、お色気、草津隊長といったように、印象的な人物がストーリーを引っ張っていく。

そうなると、必然的に主人公のしんのすけの活躍する機会は大きく減少してしまう。すると、本来は主人公であるしんのすけが作品の大部分において傍観者であるという事態を招くこととなるのであるが、これは仕方のない側面でもある。「嵐を呼ぶ園児」という形容が付されていたこともあるとは言え、世界征服をたくらむような大悪党たちの前では、しんのすけと言えど一人の幼稚園児に過ぎず、春日部防衛隊も同じで、野原一家も普通の家族に過ぎない。つまり、非日常を襲う悪の集団とまともに戦うに足るだけの力を有しておらず、そこへその悪の集団と戦うための善の集団が必要となる。

そこから、善玉と悪玉の二大勢力へのぶつかり合いに、野原一家や春日部防衛隊が巻き込まれるという構図が、第1作目から続いていた。そして必然的に、「巻き込まれた」しんのすけは必然的に傍観者となる事が多くなり、本来の主人公として作品において機能しなくなってしまう。これは製作スタッフにとっても悩みの種だったようで、「ブタのヒヅメ」のパンフレットにおいて、原恵一監督は大人のバトルや敵の悪だくみを多く描く一方で、子供たちの活躍の場があまり多くなかったのが残念だという事をインタビューで述べている。

そして、このような状況が続く中、劇しんの興行収入が低下の一途をたどり、遂に「温泉わくわく」で10億円を切るに至る。おそらくは劇しんの存続の危機にもさらされる事となり、以降は方向転換を余儀なくされる。まず、クレヨンしんちゃんは本来誰が主人公であるかの再確認が行われたと思われる。なぜなら、劇しんを観にくる観客が期待しているのは、あくまで主人公の存在感であると考えられ、しんのすけの活躍なしに興行収入の回復は困難と判断したからであろう。そもそも、主人公の活躍が少ないのでは本末転倒であるとみなされたからでもあろう。

劇しんの主人公は、言うまでもなくしんのすけであり、いかにして彼を主人公として活躍させるかが大きな課題となる。そして、劇しんの本来の観客はあくまで子供であり、子供を引き付けるような内容でなければならない事も再確認する。本来の主人公と本来の観客という、この二つの問題に対処するために、「温泉わくわく」の次回作の「ジャングル」は、これまでとは大きく異なる作品に変貌する。

まず、善と悪の2大勢力において、善の側の勢力には劇場版のオリジナルのキャラクターを一切出さず、しんのすけら日常の人物のみにしてしまうという、これまでに例の無い方法がなされる。「ジャングル」ではテレビアニメにも登場しているアクション仮面(郷郷太郎)も登場しているが、作品の前半は大人と共に敵側に捕らわれの身となり、活躍の場がほとんど与えられていない。

作品の前半部分ではほとんどがしんのすけら春日部防衛隊のジャングルでの冒険というものであり、敵や味方の人物関係などは一切扱われておらず、ストーリーは極めて簡素なものとなっている。見方を変えれば、低年齢の子供の観客にも分かりやすく理解できるよう配慮したものである。そして、しんのすけの冒険がほとんどを示す前半部分で、主人公がしんのすけである事を強調しようという意図も窺える。

「ジャングル」がこれまでの作品に比べて大きく異なる点は、敵の側において幹部に当たる存在がいなくなくなった事である。これまでの敵は一つの組織として頂点に立つ親玉の下には幹部が数人ほどおり、さらに下に雑兵がいるという図式であった。その幹部に当たるのが、原監督の作品で言えば、サタケ、バレル、キラー・フィンガー・ジョーといった面々である。

しかし、「ジャングル」にはパラダイスキングという親玉の下は、大勢のサルという言わば雑兵であり、幹部に相当する人物がいない。これは、人物関係をできるだけ簡素化しようとするものであると推測され、それはオリジナルのキャラクターを登場させなかった味方にも同様の事が言える。作中にオリジナルのキャラクターを増やせば増やすほど人物関係が複雑になり、それは作品のストーリーにも影響を与える。「暗黒タマタマ」でのサタケとマホの確執、「ブタのヒヅメ」でのお色気と筋肉の関係などがその典型であろうが、それは作品の内容をより多彩にするという点で有効であると言える。

しかし、劇しんはあくまで子供向けの作品であり、それゆえ特有の事情から必ずしも有効とは言えず、人物関係の複雑化が却って興行収入に悪影響を及ぼすこともありうる。子供向けであり、子供の観客はそのような人物関係を理解できるとは限らない、作品に対する理解力や集中力は大人とは異なる。そのため、人間関係を複雑にして、作品の質を高めようとしても、子供には単に退屈なものでしかない場合も往々にしてありうるのである。

そのような教訓がそれまでの作品で生かされたのだろうか、「ジャングル」ではオリジナルのキャラクターを極力排し、人間関係の簡素化を行うことで、子供にも理解しやすい作品作りがなされ、さらにしんのすけの活躍の場が必然的に増やされることとなったのである。

また、後半ではアクション仮面の活躍も描かれることとなるが、その活躍(コロシアムでのパラダイスとの決闘)の中で、しんのすけの応援とサポートが入り、しんのすけの存在感も忘れられないような配慮がなされ、続く空中での戦いでは、最終的にしんのすけによって勝利することとなる。つまり、クライマックスのシーンにおいてもあくまでもしんのすけが主人公としての働きを十二分に行える演出がなされているのである。

これが、次回作の「オトナ帝国」になると、さらに洗練されたものとなってくる。なぜならば、「ジャングル」には味方がまだアクション仮面という常人の力を越えた人物がいるのに対して、「オトナ帝国」ではそのような人物さえ登場しないからである。ここで、劇しんは一つの到達点に来ることとなる。それは、味方に常人の力を超えるような強い人物が来ると、しんのすけの活躍が抑えられてしまう傾向にありため、味方からそのような人物を完全に排除したことになる。



子供向けとしての「オトナ帝国」

テレビアニメにも登場していないオリジナルのキャラクターでは、そのキャラクターの個性を発揮させる演出もなされるため、なおさらである。しかし、「ジャングル」でオリジナルのキャラクターを味方から排し、「オトナ帝国」で見方から強力な人物を排したことで、しんのすけが主人公としての活躍をより出来るようにしたわけである。

そして、味方だけでなく、敵の方も「ジャングル」に比べてより(話を簡素化させるという点で)洗練させている。「オトナ帝国」の敵に当たるケンとチャコはパラダイスキングのような怪力の持ち主でも、これまでの作品の登場人物のような超能力など特殊な能力を有しているわけではなく、日本中の大人を洗脳させるための組織力を持っているに「すぎない」。そして、その大人を洗脳させる以外は、例えば子供狩りやカーチェイスのシーンを見ても一目瞭然のように、非現実的な道具などを使っているわけでもない。

また、幹部に当たる人物も登場せず、パラダイスキングはケンとチャコに、サルたちは20世紀博の戦闘員に置き換えただけに過ぎないと言える。一方で、ケンとチャコも前述したように、例えばひろしとみさえのような常人に過ぎず、それは20世紀博の戦闘員にも言え、そこから(子供とは言え)同じ常人のしんのすけと等身大で戦うということとなる。

このようなしんのすけと等身大での戦いは、「ジャングル」においてはパラダイスキングがジャイロコプターの操作というハンデを背負わせることで、「常人」への格下げがなされているが、「オトナ帝国」ではさらに簡素化され、単にケンとチャコよりも先にタワーの上に到達するというただそれだけのものとなっている(ただし、しんのすけの姿を見た夕日町の住人が考えを変えていることから、この勝負はむしろ未来を生きるか過去に留まるかという、精神的がぶつかり合いであるといった方が正確であろう)。

子供の観客に、このような未来を生きるというしんのすけの想いがダイレクトに伝わっているか否かは筆者には知る由も無いが、少なくともしんのすけが敵に絶対に負けるわけにはいかないという思いは通用したのではないかと考えている。

このような、人物関係の簡素化によって話を単純にして分かりやすくし、なおかつ主人公のしんのすけを終始活躍させるという二つの試みが「ジャングル」で初めてなされ、これにより劇しんは本来の子供向けの作品への回帰がなされ、「オトナ帝国」でよりそれが洗練された形となったわけである。

もし、「オトナ帝国」がこのような二つの試みを行っていなければ、興行収入は「温泉わくわく」をも下回り、劇しんは打ち切りになっていた可能性も考えられる。もっとも、それでもノスタルジーなと大人向けの要素が健在であれば、現在のような高い評価を受けることになったかもしれない。「オトナ帝国」がヒットし、劇しんの興行収入が一気に回復したのは、「大人も泣ける」という、大人を引き付ける要素によるものではなく、上記の二つの試みが子供心をつかむのに見事に成功したからだと筆者は考えている。

そういう意味では、「オトナ帝国」こそが劇しんで最も洗練された子供向けの作品の一つであると言える。同作品はこれまで大人向けとしての高い評価がなされてきたが、このような子供向けとしての高い評価もなされてしかるべき作品でもある。劇場版クレヨンしんちゃんにおける誤謬でも述べたように、「オトナ帝国」で大人の観客が多く入ったのは嘘だからである。大人による高い評価と公開時のヒットは、全く無関係ではないだろうが、あまり因果関係があるものでもない。

以上から、作品の本質的な観点からすると、「ジャングル」と「オトナ帝国」こそがひとまとめにすることができ、「オトナ帝国」と「戦国大合戦」をひとまとめにするのは、表面的なイメージからなされており、作品の本質的な観点からすると正しいとは言えない。

蛇足だが、後の「3分ポッキリ」も、このような二つの試みがなされているようにも見えるが、こちらは前半にみさえとひろしの活躍が大部分を占めており、しんのすけの活躍が前半では少ないため、しんのすけを終始活躍させるという条件を満たしているとは言い難い。そこから、このような二つの試みがなされているのは「ジャングル」と「オトナ帝国」以外に、劇しんでは存在しないのである。



「失敗作」としての「戦国大合戦」

「オトナ帝国」の次回作の「戦国大合戦」では、二つの試みというものが全く無視されており、しんのすけの活躍も少なくなり、又兵衛に押されている。ここから、子供の観客にとって前作よりも退屈なものになったと思われる。実際に、「オトナ帝国」の興行収入は14億3千万円なのに対し、「戦国大合戦」では13億円と、1億3千万円も落ちている。確かに、この13億円という数字は決して悪くなく(当時の興行収入では全10作中第5位に当たる)、「ジャングル」の10億6千万円の方がはるかに少なく、こちらの方が問題だと思われるかもしれない。

しかし、「ジャングル」の場合は、前作の「温泉わくわく」の興行収入が歴代最低の10億円を切るという事態が起こってしまった後という、言い換えれば劇しんから子供が離れているという非常に旗色の悪い時期に公開されている事も考慮に入れる必要がある。「ジャングル」で多くの子供の観客を呼び戻すための試みが初めてなされ、その結果興行収入が回復しただけでも評価すべき事であろう。

そして、その「ジャングル」での成果は「オトナ帝国」で証明されたとも言える。もちろん、「オトナ帝国」で子供を引き付ける要素の取り入れを完成させたことがヒットの第一の理由であろうが、「ジャングル」で劇しんは真の子供向けに回帰したことを子供に知らしめた事もヒットの理由であると言えよう。前作の影響が次回作にも表れるというのは、「戦国大合戦」にも言えるためである。

「戦国大合戦」での13億円という決して悪くない興行収入は、前作の「オトナ帝国」の余波によって実現したものだと考えられる。なぜなら、「戦国大合戦」には「ジャングル」と「オトナ帝国」で取り入れられていた二つの試みは存在しないからで、それどころか又兵衛と廉姫の恋愛という別の人物関係を入れてはより一層それを複雑にしており、しんのすけの活躍も多いものではない。また、戦国時代における時代考証の正確さが好評を博してはいるものの、そのような評価は大人によってなされているものであり、子供が重視するものではない。

この作品の売りでもある身分を隔てた又兵衛や廉姫の恋愛や、時代考証の正確さは子供を惹きつけるものではない。また、悪役(大蔵井高虎)が何をたくらんでいるのかも、子供には分かりにくいと考えることができる(婚姻の申し出を断られたのを口実に春日城を攻めるという明確な理由は劇中で語られているが、そのような大名同士のやり取りや陰謀などは、子供には理解しにくいものでもある可能性が高い)。

確かに、「戦国大合戦」の興行収入は決して悪いものではないが、前作の「オトナ帝国」の興行収入に1億円3千万円も急落している側面もある。興行収入の急落は世間のクレしんのブームが起こっては冷めていった本郷監督時代にしばしば見られたが、原監督の作品(「暗黒タマタマ」)以降、1億3千万円も興行収入が下落した例は実は存在しない。ここから、「オトナ帝国」のヒットにも関わらず、「戦国大合戦」では急落したという別の事実が浮かび上がってくる。

「戦国大合戦」の興行収入は、前述したように「オトナ帝国」の余波によるもの、つまり前作の影響によるところが大きいのであり、言い方を変えれば前作の影響力に依存することで、辛うじてある程度のヒットをさせられたというわけである。

だからと言って「戦国大合戦」が駄作であるということは決してないが、それでも子供を惹きつけるという側面では失敗であったと言わねばならないだろう。ただし、製作スタッフもそれを承知の上だったのかもしれない。それでは、「戦国大合戦」に類似した作品が何かと言えば、それははじめにでも書いたように、「カスカベボーイズ」であると筆者は考えている。



アイデンティティの模索

「戦国大合戦」は一見するとこれまでの劇しんと同様、ストーリーの流れが日常、非日常、日常と分けることができる。即ち、現代における野原一家を描いた日常、しんのすけと野原一家が戦国時代へ行ってしまった非日常、そして再び野原一家が現代に帰るという日常である。しかし、非日常の中では、常に敵との戦いがあるわけではなく、非日常にありながら緊迫感が無い日常に近い生活を送っているのが前半の描写である。そして、後半になると、敵(大蔵井高虎)との戦いがメインとなり、これまでの劇しんのような緊迫感のある非日常の描写へと移っていく。

つまり、「戦国大合戦」における非日常には、さらに日常と非日常と二つに分割することができるわけである。なぜ、わざわざ非日常の半分ほどを日常と変わらない内容となっているのか。この疑問を解くためにヒントとなるのが、登場人物の人間関係である。

「戦国大合戦」は春日の国の存続をめぐる攻防を縦糸に、又兵衛と廉姫の間に育まれる恋愛を横糸としてストーリーの展開がなされているが、この横糸の部分である又兵衛と廉姫の恋愛、つまり二人が身分という壁を越えて、互いに惹かれあっていくという心理的描写を綿密に行っているのが非日常の前半、非日常における日常の描写なのである。

そして、又兵衛と廉姫は当初、お互いが恋心を抱いているという自覚を明確に持ってわけではなく、又兵衛は頑なに拒否している。また、ひろしとみさえは戦国時代に来た当初、(当然の心理として)現代の世界に戻ろうとするが、これは(しんのすけも含めて)戦国時代にやって来て、この時代において課せられた自分たちの使命(春日の国を守る)に気付いていないためである。実際、その使命が果たされた時、これで現代に帰れると確信していると思われ、実際に何の障害もなく戻っている。

このように、「戦国大合戦」では登場人物たちが、自分がいかなる存在であるべきなのかを模索するという描写がなされ、これは又兵衛と廉姫との恋愛という作品の横糸の部分をさらに広く解釈したものであると言える。つまり、「戦国大合戦」の一つの大きなテーマに、登場人物のアイデンティティの模索というものがある。

このようなアイデンティティの模索は、後半の非日常における非日常、つまり戦を通して急速な展開を見せる。それは、例えば廉姫が吉及の制止を振り切り櫓へ走っていく場面からでも窺える。そして、戦が終わって、又兵衛が謎の銃弾に斃れた時、なぜ自分が今まで生きてきたのかを知ることとなり、また廉姫は又兵衛が好きだった気持ちを認め、だからこそ誰とも結婚しないという意志を明確にすることとなる。また、前述したように野原一家もこれで自分たちの使命が終わった事を確信するわけである。

このような「戦国大合戦」におけるストーリー展開は、「カスカベボーイズ」のそれと酷似している。「カスカベボーイズ」における非日常も、前半はジャスティスシティでの野原一家やかすかべ防衛隊の生活が描かれており、日常の生活に近い内容となっている。そして非日常の後半では、春日部に帰るためにジャスティスらとの戦いが描かれている。

つまり、「戦国大合戦」と同じで、ストーリーの流れが春日部での日常、映画の世界に入ってしまう非日常、再び春日部に戻る日常ということとなっているが、映画の世界に入ってしまう非日常は、さらに日常と非日常と分けることができるのである。そして、非日常の場面が二つに分割されているのは、やはり「戦国大合戦」と同じく、登場人物の心理描写やアイデンティティの模索を綿密に描くためである。

「カスカベボーイズ」のストーリー展開は、映画の世界から春日部に帰るための方法の模索やそのための戦いを縦糸として、しんのすけとつばきとの間に育まれる恋愛を横糸としてなされている。「カスカベボーイズ」におけるしんのすけは、本当は好きであるのにそうではないと拒否しているという点で又兵衛と共通している。そして、しんのすけとつばきの恋愛という「カスカベボーイズ」の縦糸に当たる部分をより広く解釈すると、登場人物たちがいかなる存在であるべきか、その模索であると言え、このような縦糸の二重の解釈は、「戦国大合戦」にも可能なことである。

ただし、そのようなアイデンティティの模索は、「カスカベボーイズ」ではより明確に行われている。又兵衛が最後まで廉姫に対する想いを明確に口にすることが無かったのに対し、しんちゃんはつばきに懸命に告白しようとしていることから、自分はいかなる存在(心のあり方がいかなるものか)をより明確しており、他の登場人物もまた同様である。それは、ジャスティスシティでは記憶が失われていってしまい、本来自分はどこに属する人間なのかを模索することが、登場人物の心中を大きく占めているからであろう。

映画の世界に入ったのは、「戦国大合戦」のように野原一家だけでなく、かすかべ防衛隊の面々やマイクをはじめとする春日部の大勢の住人も含まれている。ジャスティスとの戦いは春日部に帰るということが目的である。春日の国を守るのが目的で、野原一家が現代に帰る事が(間接的ではあっても)直接の目的ではない、「戦国大合戦」での戦とは目的が異なっていることが分かる。

ここから、横糸の部分の「カスカベボーイズ」における春日部へ帰るということは、そもそも登場人物たちが自分たちのアイデンティティ、真に属する世界はどこなのかを明確にすることが前提となってくる。「戦国大合戦」におけるストーリー展開において、縦糸と横糸の間には因果関係が薄いのに対して、「カスカベボーイズ」での縦糸と横糸には直接の因果関係が横たわっているのも、大きな違いである。

見方を変えれば、「戦国大合戦」は戦や恋愛など、野原一家がいかにして現代に帰るのか、直接の関連性の無い要素が多く盛り込まれているのに対して、「カスカベボーイズ」ではしんのすけら春日部の住人たちがいかにして春日部に帰るかが作品の主要なテーマとなっており、しんのすけとつばきの恋愛といった、そのような春日部に帰る事とは直接の関連性の無い要素は最小限に留められており、それによってストーリーが簡素化されていると言える。そういう意味では、「戦国大合戦」よりも「カスカベボーイズ」のストーリーの方がより洗練されたものとなっていると言えるかもしれないが、それは「ジャングル」よりも後に公開された「オトナ帝国」の方が子供向けの要素がより洗練されて取り入れられているのと同様、「カスカベボーイズ」の方が後に公開されたためであろう。



未練の有無

しかし、ラストシーンに限定すると、「戦国大合戦」よりも「カスカベボーイズ」の方が洗練されていない、というよりも潔さに欠けて未練がましいものとなっている。即ち、別れの場面である。両作品ともに、しんのすけらが元の日常の世界に戻る際、その世界の住人との別れが必然となる。「戦国大合戦」においては、野原一家と廉姫の別れのシーンが描かれているが、その別れを両者ともにごく自然なものとして受け入れている。

これに対して、「カスカベボーイズ」では春日部に帰って来た時、つばきがいない事に、つまり映画の世界から戻る際に離れ離れになってしまったその現実を、しんのすけはなかなか受け入れようとせず、受け入れざるを得ないと認識するとひどく落ち込んでしまう。これは、つばきが春日部の住人であり、共に春日部に帰れるという確信がなされていたためであるが、それとは対照的に「戦国大合戦」で描かれている潔さにも、ある特殊な事情が存在すると考えられる。

そもそもしんのすけら野原一家は廉姫と別れる前に、既に又兵衛との別れを果たしているが、その別れは彼の死によってなされたもので、こちらはつばきとの別れと同様、全く予想していなかった別れである。しかも、つばきとの別れは生き別れであると思われるのに対し、又兵衛との別れは彼の死でもってなされているのに大きな違いがある。又兵衛の死を目の当たりにしたしんのすけは、当然ながらあまりにも大きな衝撃であり、そのショックと悲しみでしんのすけは大粒の涙を流す。

この、しんのすけが涙を流す描写は「しんちゃんは泣かない」という、スタッフの間で確立されていた規則に真正面から相反するものである。「ヘンダーランド」や「ブタのヒヅメ」などもしんのすけが涙を流すシーンはあるが、それはあくまで目立たないように留めているのとは明確に異なる描写である。このような描写がなされている背景には、人間の死がどれほどの悲劇であるか、言うなれば人間の死という悲劇の象徴が存在していると思われるが、これほどの涙により、しんのすけは一つの「膿」を絞り出すことに成功しているとも言える。

又兵衛の死に対するショックが悲しみという「膿」を、しんのすけの流す涙として存分に排出するよう大きく後押したものであり、これ以上悲しい思いをしなくても済むくらい、そこで悲しみを味わったわけである。そのような「膿」を排出しきったために、又兵衛がいなくなったこと、廉姫との別れに対して抵抗なく受け入れられたと思われる(無論、一度は好きになった廉姫との別れの潔さには、しんのすけが廉姫と又兵衛の仲を認め、自分がその間に入る余地は無いと確信したからでもあろう)。

そのため、そのような悲劇を通した「戦国大合戦」のラストは極めて潔いものとなっているが、「カスカベボーイズ」の場合はそのような潔さが見られない。「カスカベボーイズ」において、表面的にしんのすけとつばきの仲の親密さは、身分の壁が存在していた又兵衛と廉姫のそれを上回るものである。このような親密な仲になったしんのすけにとって、つばきと別れてしまう事は又兵衛の死と同様、しんのすけにとっては大きな悲しみである。

しかし、又兵衛の死はしんのすけの目の前で起こり、そのような悲劇が起こったという事をすぐに認識することとなり、その即行の認識がしんのすけの悲しみを一気に押し上げ、涙を流させることとなった一方で、「カスカベボーイズ」でつばきがいない事をしんのすけが認識するのにはかなりの時間を要している。

カスカベ座の映画館に戻り、つばきもいるはずだと確信し、探すものの彼女の姿は見当たらない。しんのすけはひたすらつばきに会えるはずと確信し続け、それでも会えない事に対して言いようのない不安を覚え、もしくは段々と実はつばきは映画の世界の人間で、もう会えないのではという不安が意識のどこかで芽生えだしたのかもしれない。

いずれにせよ、つばきともう会えないという事実は突然目の前で突き付けられたというわけではなく、徐々に認識するようになったわけである。又兵衛の死のようなでの即行の認識ではないため、悲しみが一気に押し上がってくることもなかったために、しんのすけは涙を流すことは無かったのである(この点は「カスカベボーイズ」のパンフレットで水島努監督が語っているように、しんのすけを泣かさないのは同監督の方針でもあった)。

そのため、涙を流さないことで悲しみという「膿」を絞り出す機会を失ってしまったというわけである。結局、悲しみという「膿」はしんのすけの精神の中で根強く残る結果となり、その後シロと再会を果たすことで「膿」を消滅させたかのように見えるものの、果たして本当になくなったかについては疑わしくもある。なぜなら、この直後のエンディングでしんのすけはつばきと会って(あるいは再会して)いるからである。エンディングのシーンが本編と直接関係があるか否かは作品によるが、このエンディングが本編と関連があるか否かはどちらにでも解釈ができてしまう。

もし、あるのであれば、まさにしんのすけの願望を反映させたものであり、それは彼の未練を描写したものである。程度の差はあれ、劇しんはどの作品もそうであろうが、「戦国大合戦」も「カスカベボーイズ」も、観客は主人公のしんのすけと同感する傾向のある作品である。だからこそ、「戦国大合戦」ではしんのすけと共に泣いたという観客が多くいて、「カスカベボーイズ」でもつばきがいない事に未練を感じている観客が多くいると思われる。「つばきの正体は何だったのか」という問いで、実はつばきの正体はシロである、映画そのものであるといった珍説がファンの間で飛び交っているのは、そのようなつばきが存在しない事に対する観客の未練の表われであろう。

このように、「戦国大合戦」に比べて、「カスカベボーイズ」のストーリーは簡素なものとなっているものの、ラストで潔さが欠けてしまっている。ただし、それが悪いというわけでも、「カスカベボーイズ」という作品の質を貶める要素になっているわけではない。それどころか、潔さが無くなったことで、観客に強く印象付けることに成功している。それは前述したような珍説からでも明らかで、むしろ同作品の質をあげる一要素となっているわけある。「戦国大合戦」も観客から泣ける作品と高い評価を得ているが、それはラストのしんのすけの涙によるところも大きい。

この二作品は、作品の本質的な観点から類似点が多く見出せるものの、そのラストで描かれている要素は全く異なっている。しかし、その異なる要素は作品の質を上げるという点においては共通している。上記の2作品のように、複数の作品を比較して考察を行うことで、様々な興味深い事が分かってくると言える。



結び

劇場版クレヨンしんちゃんは、泣ける作品であるという評判をしばしば耳にするが、それは本文でも取り上げた「オトナ帝国」や「戦国大合戦」のみの評価が世間で一人歩きした結果であろう。実際には、劇しんは笑える作品の方が多く、感動できる作品はそれほど多くはないというのが実際であるが、「オトナ帝国」や「戦国大合戦」、他にも「ブタのヒヅメ」や「ケツだけ爆弾」のみを見ると、劇しんイコール泣けるという必ずしも正確でないイメージが定着することとなる。

ある特定の物事を評価する際、他の物事とも比べることで、それが分かってくることも多い。先の劇しんの例で言えば、「戦国大合戦」をどう評価するかで、他の作品と比較することで、劇しんの中では特に泣ける、質の高い作品である事が認識できるのである。

これは映画だけでなく、他の物事にもあてはめることができる。例えば、クレしんにおける野原一家はあまりぜいたくが出来ない家庭であると描写されることが多い。そのため、野原一家はあまり金持ちでないように見えるが、それはあくまでも日本国内のみの家庭を比較した場合である。

電気や水道の通った2階建ての一軒家に住み、テレビ、冷蔵庫、自家用車まで所有し、犬まで飼って、子供には建前上は大学まで行かせることができる(テレビアニメでみさえがしんのすけに大学を出たら家を出て独立するよう言う話がある)という彼らの生活は、世界的に見れば非常に裕福なもので、世界で本当に貧しいとされる人々には想像を絶するほどの豊かさを彼らは享受しているのである。

しかし、そのような事も世界中の人々と比較しなければ分からないわけで野原一家がその事をあまり自覚しないのは、あくまでも日本国内のみでの比較に留めてしまっているからである。このように、比較することは様々な事象を考えるのに、非常に有効な手段であり、比較の規模を変えてみるのも、様々な見方を可能とする。

もちろん、多くの人々は日常生活でも常に比較という作業を行っているであろうから、このような事を書くのは釈迦に説法かもしれないが、それでも劇しんも比較によって様々な事が浮かび上がってきて、同作品に対する興味がつきない。本文で筆者が主張した事をもう一度まとめると、以下のようになる。

「オトナ帝国」のヒットは大人向けの要素ではなく、子供向けの要素によって成しえたわけであり、その子供向けの要素を取り入れる試みは「ジャングル」で初めて行われている。そのため、「オトナ帝国」と「ジャングル」をひとまとめにすることができる。

「戦国大合戦」のヒットは「オトナ帝国」のヒットの余波により成しえたものであり、前作がヒット作でなければ、「戦国大合戦」もヒットしなかったと思われる。「戦国大合戦」は「カスカベボーイズ」とアイデンティティの模索といった点で、ひとまとめにすることができるくらい内容が類似しているが、「カスカベボーイズ」の方がストーリーは簡素なもので、ラストは潔さに欠ける。

以上、これらの考察は、上記の作品の評価を貶めるものではない事をここに明記しておく。特に、本文でも書いたように、「戦国大合戦」はヒットしえなかった作品と言っても、それで同作品を駄作とする決めつける意図は毛頭ない。ただ、子供を惹きつけるだけの要素が足りなかったと述べているに過ぎない。本文において筆者が目的としたのは、複数の作品を比較し、そこから本質的に何が見いだせるか、どのような解釈が可能であるかということで、特定の作品を名作もしくは駄作と決めつける単純なものではない。

本文では、劇しんをヒットさせる担い手は子供であり、その子供に受け入れられる作風という点から、主にストーリーや登場人物の簡素化、しんのすけの活躍などを論じたが、もちろんこれらはヒットの要因においてはごく一部のものにすぎない。

例えば、「ヤキニクロード」と「カスカベボーイズ」は、両作品ともにしんのすけが活躍する一方、人物の簡素化はなされていないという共通点が存在しているにも関わらず、両作品の興行収入は「ヤキニクロード」が13億5千万円、「カスカベボーイズ」は12億8千万円で、7千万円という大きな差がついている。

また、劇しんは昨年公開された「ケツだけ爆弾」のように、初めて三つどもえの構造でストーリー展開がなされていたりと、ますます作風が多様なものとなっている。その三つどもえにより人物関係がさらに複雑化した「ケツだけ爆弾」は、「オトナ帝国」を抜いて興行収入記録を塗りかえた。

つまり、「ヤキニクロード」や「ケツだけ爆弾」のヒットの要因には人物関係の簡素化ではなく、他の様々な要素が存在しているわけだが、それらに関してはまた別の機会に論じることができればと思っている。

本文によって、読者諸氏が劇しんの内容の奥深さや多様な解釈が可能である事を理解していただき、今後劇しんを鑑賞される際に、少しでも役に立てられればこの上ない幸いである。



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