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嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦

〜意志と運命の狭間で〜



INHALTSVERZEICHNIS

介入するもの

意志の顕在化

運命の壁

赦し

銃声

青空侍

脚注






介入するもの

泉のほとり、空を眺める一人の女性。空には一つの雲が浮かんでいる。その後、女性は棒で花をいじり、やがて泉の前に行き、手で水をすくって飲みほす。そして、泉のはるか向こう側を見つめる。

劇場版の第10作目となる「嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦」の冒頭はこのような場面から始まるが、この冒頭シーンはしんのすけの夢であったことが判明する。劇しんのオープニング前における冒頭シーンは、「ジャングル」以降しんのすけが登場している。「戦国大合戦」もその流れに乗っているわけであるが、テレビアニメに登場しない劇場版の主要なオリジナルのキャラクターが冒頭シーンで登場するのは、人物のみに限定すればお色気などが登場した「ブタのヒヅメ」、人物以外も含めれば巨大ロボットが登場した「温泉わくわく」以降となる(※1

初期の作品では、オープニング前の冒頭では劇場版のオリジナルキャラクターが登場して、その後の非日常の展開の始まりを描いていた(※2。これは主人公のしんのすけの活躍よりも、テレビアニメでは見られないような大がかりな非日常の描写を重視していた傾向による。しかし、「戦国大合戦」の冒頭シーンは、アクションやストーリーが描かれているとは言い難い。一人の女性が泉のほとりにいるという夢をしんのすけが見ていただけであり、具体的にその後の作品の流れを知る手がかりが存在するとは言えない。

しかし、そこに何か伏線が含まれている事は容易に想像がつく。オープニング後に、しんのすけだけでなくひまわりやシロまでもを含めた野原一家全員が、同じ夢を見ていた事が判明している。この女性は戦国時代に春日を治めていた春日康綱の娘であり、やんごとなき姫君という身分の廉であることが後に分かるが、みさえは夢の中での廉が淋しそうであったと指摘している。

冒頭で廉が眺める空に一つの空が浮かんでいるが、その空は後に登場する一人の侍、井尻又兵衛の掲げる旗、青地の雲という柄とよく似ていることが分かる。ここから、空の光景は又兵衛を表しているものと考えることができる。空は人の手に届かないところにあり、空と人との間には、大きな断絶が存在する。

幼馴染であり、かつては自分の遊び相手であった又兵衛は、廉が後に作中で「昔は虫も殺さなかったお前が、今では戦で多くの敵を殺め、お前自身、いつ命を落すやも知れん」と語っている通り、自分が決して踏み込めず、そして本人が明言したように、嫌いな侍となって戦に身を投じている。幼馴染で遊び相手をしていた者が、今では自分の手の届かない世界に行ってしまっている。そして、廉自身もまた顔さえ見たことのない他国の殿に嫁いで国の安泰に貢献しなければならない身である。

しかし、心のどこかでは又兵衛が自分から離れて行ってしまう事が耐えられず、その心境がみさえの言う淋しそうな表情に表れていると思われる。そして、花をいじるなどの行為は、その淋しさを紛らわす行為であったのかもしれない。このような、廉の胸の内が表れていると思わる場面を、野原一家全員が夢として見ていたわけで、廉の自身の運命に流される堪え難さが、時間を超えて野原一家の届き、運命の方向が本来とは別の場所へ向かい始めた事を示していると考えられる。しかし、犬も含めて複数の人間が同じ夢を見るなどというのは、非現実的な現象である。さらに奇妙な事に、このような非日常の現象が起こった明確な根拠が作中では一切描かれていない。

劇しんは、特に初期の頃の作品はSFなど非日常の要素が多く登場していたが、科学的な考察はともかくとして、曲がりなりにもそのような要素が登場する要因が存在するという前提の上に立ったものだった。例えば、「ハイグレ魔王」の場合は地球人よりも文明の進んだ宇宙人がもう一つの地球がある世界に存在する事が前提となっており、「ブリブリ王国」のブリブリ魔神や「温泉わくわく」の温泉の精である丹波も、現実を超越した存在であるものの、あくまでも作中の世界ではそのようなものが存在するという前提でストーリーが展開されていた。

一方、「戦国大合戦」ではそもそも非日常を前提とする存在が一切登場せず、いかなるプロセスでしんのすけらが時間を超えて戦国時代に行ったのか、その説明はおろか描写さえ無い。これまでの作品のように、現実の科学を超越した存在が描かれずに現実を超えた非日常の出来事が展開されているという、極めて異例の作品となっている。それでは、なぜそのような描写は一切登場しないのか。

考えられる理由の一つが、登場人物、それも廉を中心に登場人物たちの進むべき道のみをありのままに描写を行うことで、人の運命はどうすることもできない事を描こうとしたのではないかと考えられる。何か非日常の要素、例えば「ヘンダーランド」のスゲーナ・スゴイデスのトランプのようなものがあれば、現実を超えた力を借りて、登場人物たちは自分たちの運命をも変えてしまう事が可能であったのだが、そのような非日常の要素は一切登場せず、しかも理由や根拠は分からないのに非現実的な現象は起こり、作中で登場人物たちはそれに振り回される様を描かれているわけである。人間は己の力を超越した存在が無ければ、ただひたすら運命にかき乱される以外にどうしようもないという、人間の存在の脆弱さを暗に描こうとしたのかもしれない。

しかし、そのような脆弱である人間にも心の奥底では強い意志が存在し、そのような意志が時に運命をも動かしうる。つまり廉の意志そのものが「戦国大合戦」における非日常の根拠となりうると説明ができるようになる。それでは、廉の意志がどのようにして、野原一家を戦国時代に導くなどの非日常の現象を引き起こすようになったのか。廉をはじめ、本作品には日常を非日常に変えてしまう超人的な能力を持つと思われる人物は誰も登場しない。全員がただの人に過ぎない。そうなると、作品には登場しない、もしくは目に見えない何かが、廉の意志に呼応して彼女の運命を変えようと介在したのではないかという推測が成り立つ。

その何かとは、人の運命を変える、つまりこの世の動きを意のままにしうる存在であることから、神、造物主、天帝といった存在が浮かび上がる。英国の進化生物学者リチャード・ドーキンスは、神は存在するかもしれないが、存在したとしても人間に対しては非情なまでに無関心であるという事を述べている。確かに神は人間のいかなる悲劇、例えば本作品で言えば戦で多くの兵が無残に死んでいく様にも介入する様子は見られない。

しかし、一方で野原一家が又兵衛たちの家族のように誰もが死なず無事に生きているように、廉や又兵衛の時代から400年以上経った日本において、人類が曲がりなりにも野原一家のようにほとんどの人間が元気に暮らしていけるという世の中を作り上げるまで進歩した事の背景には、神と呼べる存在の介入があったのではと思えなくもないだろうか。ただし、それを証明する術は一切無く、やはりその存在は人間に対しては徹底的に無関心であるのかもしれない。しかし、なぜか戦国時代の日本に生きる一人の女性に対して関心を示し、その運命を変えるようにこの世に一際強い干渉を行った。だからこそ、作中では非日常の要素は何も見られないが、野原一家が戦国時代へ向かうなどの非日常の描写は存在することとなる。

「戦国大合戦」は非日常の描写を抑えた、日常の作風に近い作品であると、表面上はそのように見えるが、実は作品全体が人間の運命をも思い通りにしうる、造物主とも呼べる存在によって干渉されており、その意味では劇しんの作品の中でも最も日常からかけ離れた作品であるとも言える。これまでの作品に登場した非日常の要素は、個々の現象を描いたものに過ぎないが、本作品ではこの世の全てが何者かに操られているという、時間をも超えた世界全体が非日常と化していると捉えられるからである。

このように、神と呼べるべき存在が廉という一人の女性の意志に応えるべく、廉がいた泉の場所に時間を超えて存在する野原一家に、その意志を投影させたのであり、それを表したのが作中の冒頭の夢であると考えられる。そして、その時点から野原一家は神と思しき存在の影響下に入ることとなり、言い換えれば本作品は冒頭から既に非日常が描かれており、最後までその状態が保たれ、劇しんで日常のシーンが存在しない唯一の作品であるという解釈も可能である(※3

実際に、冒頭の夢の後、野原一家には外面および内面において様々な変化が見られるようになり、その最初の兆候がシロの庭を掘るという行為である。シロは庭に穴をひたすら掘り、しんのすけがその穴を埋めようとすると妨害を行う。シロの堀った穴からは、しんのすけの書いた手紙を入れた文箱が見つかるが、シロにとってこの文箱は直接の関わりのあるものではなく、決して重要なものではない。ここから、シロのこの行為は廉の意志がシロに影響を与えたために、このような行動に走らせたのだと解釈ができる。そして、これはあくまでも心境の変化による行動であるため、内面における変化だと言える。

さて、当初は穴を埋めようとしていたしんのすけはそれを妨害するシロの執拗さに辟易し、共に穴を掘るが、あくまでも大判や小判などの宝があるはずだという物欲に動かされてのものであり、廉の意思の反映が関係あるようには見えない。しかし、手紙を見つけて、その手紙に書かれている「おねいさん」が、冒頭の夢で見た廉であると推測したしんのすけは、ふと眼をつぶる。そして眼を開けたら、そこは春日部ではなく夢で見た泉のほとりであり、天正2年、つまり1574年の時代にタイムスリップしていた。これは、しんのすけの心境とは関係なく起こった非日常の要素である点で、外的な変化であると言える。先のシロの穴を掘るという内的な変化と思われる行為は、必ずしも非現実的だと言い切れるものではないのに対して、こちらの外的な変化は現実的な現象であると言える余地は存在しない。

一方で、その非現実的な現象が起こった過程を全く描写していないのは、廉の意志そのものが本作品における非日常の根源であり、その意志がこの世を動かしうる力を持つ何かによるからというのは先に述べた通りである。そして、非現実的な現象をなるべく現実的に描写しようとする点では、先のシロの穴を掘るという行為が現実的であるという事から、この行為もまた本作品においては非日常の描写であると解釈ができる。つまり、本作品は現実的と思われる描写においても非日常を描いたものであり、それを見分けるには廉の意志が反映されているか否かが大きな基準になりうると思われる。



意志の顕在化

戦国時代に導かれたしんのすけは又兵衛との出会いを果たすが、彼を殺そうとしていた兵たちに近づいたことで、命を救うこととなる。こうして、そこで死ぬであろうと思われた又兵衛はしんのすけによって救われたわけであるが、そもそもしんのすけが戦国時代に来るという事が非現実的であるならば、この又兵衛の命が救われるという事態は非現実的な現象の延長である。言い換えれば、未来から来た人間によって、本来の歴史が変わってしまう事となったのである。なぜ、歴史が変わってしまったのか。

それは、本作品の非日常、つまりこの歴史の変化を含めた現象の根源が廉の意志であり、その意志がおそらく何か大きな力を持つと思われる存在の干渉によって、現実に反映されたからだと思われる。もし、しんのすけら野原一家が戦国時代に来なかったら、前述したように、廉は顔さえ見たことのない他国の殿に嫁いで国の安泰に貢献しなければならないという己の運命に従うでしかなかった可能性が、作中における状況などから極めて高い。

しんのすけは又兵衛の命を救ったが、もし又兵衛が命を落としていたら、あるいはそこで又兵衛が助かっていたとしても、廉は自らの意志を反映させることはおろか、そもそも自覚させることができたかさえ疑わしい。廉は作中でしんのすけに、「そなたたちの世界では、どのようにして恋をする」と訊いている。これは、廉は自分がどのような意志を持っているかを自ら自覚した兆候を示した台詞だと考えられる。廉の意志とは、ただ好きな人と一緒になりたいという、それだけだと言っても良い。

そして、その意志が誰にでも実現させることができるという21世紀からやってきたしんのすけと出会い、未来の話を聞いてきたことから、廉が自分の意志が運命とは異なることを自覚するに至ったのだと推測ができる。そもそも、廉はしんのすけから「廉ちゃん」と呼ばれることを全く気にしていない。ここから、廉自身が吉乃のような当時では当然であったと思われる保守的な考えの持ち主ではなく、現代に近い自由主義的な思想の持ち主である事が伺える。元々持っていたそのような思想が、廉に家や身分に流されない生き方という意志を潜在的ながら持たすこととなり、未来から来たしんのすけから自由で平和な世界が実際に存在することを聞かされることで、その意志を意識するようになり、その表れが前述の廉のしんのすけに対する質問である。

そして、しんのすけの21世紀では互いが好きになれば良いという答えにより、廉は自らの意志を反映させられる世界が存在することを知らされる。しかし、一方で自らの現実を改めて自覚させられることとなる。そして、その現実を呼び覚ましたのが、廉の意志でおいて一緒にいたいという人物である又兵衛の「姫様は春日の為になる縁組を結ばねばならぬ身」という言葉である。自らの意志のおける本当に好きな人間から、その意志を否定されるという皮肉が生じているわけである。廉は大蔵井高虎の縁談の話を持ち出し、それに対して家中の者は皆喜ぶと答えた又兵衛に、廉は「お前もか」と自らの意志が正しいかを再度尋ねるが、又兵衛は廉が高虎の元へ嫁入りする事をやはり肯定し、廉は又兵衛が彼女の意志を否定した現実を目の当たりにする。

しんのすけが自宅の庭で見つけた手紙を書き上げる前後の会話の後、廉は又兵衛としんのすけを部屋から出すが、自らの意志をしんのすけによって知らされたにも関わらず、その意志において好きな人の又兵衛に、自分の言う事を全面否定されてしまったのである。しんのすけが未来からやってきたことで、廉の運命は意志によって動かされ出し、その自らの意志がいかなるものかを意識するようになった矢先、再び運命は元の道に還ろうとしているように見える。

一方で、又兵衛もまた実は廉が好きであり、その事をしんのすけによって、廉よりもさらに露骨な形で暴露されるようになる。矢倉の上で又兵衛は、しんのすけに廉の前では常に緊張していると指摘され、それを否定しようとするも、結局それを自覚せざるを得ない。しかし、又兵衛は廉の意志を否定していたように、その自らの意志をも必死に否定しようとする。そして、しんのすけに自らの心情を誰にも話さないと約束を行うことで、その意志を封印してしまう。

その約束は、まずしんのすけの時代で行われるという「男同士のお約束」を行い、そして又兵衛の時代における「金打(きんちょう)」という誓いの儀式を行う。又兵衛によると、金打とは武士同士が行う重い作法の誓いの儀式であり、約束を破れば武士の資格が無くなるとのことである。これだけ重い誓いを行うのは、又兵衛が決して自らの意志を無かったことにしてしまいたいという気持ちがよほど強いと言う事が伺える。つまり、彼は廉よりも守旧的な建前を取り繕うという、彼女が好きというのとは別の意志をはるかに強く持ち合わせている。

これは廉が自分よりも身分が高いという事に対する従属心があり、また自分が廉に対して好きであるという意志を明確にすると、身分などの大きな障害により却って周りの人間や廉にまで迷惑が被るという逆説的ながら廉のためを想い、あえて意志を封印したのだとも思われる。ここで、又兵衛は廉が好きだが、その意志を明確にしない事が却って彼女のためになるというジレンマをひとまず解決させたこととなる。さらに、仁右衛門によれば又兵衛は女に対して大変な臆病者であり、このような性格が、廉が好きであるという意志を明確にする事の障害になっているとも言える。

この金打は、廉が好きであるという又兵衛の意志を封印する他に、武士が行う誓いの儀式という意味で、又兵衛はしんのすけを一人の武士として認めている事が伺える。しんのすけは又兵衛の命を救ったという事もあるだろうが、何よりもしんのすけが武士としての素質を持っている事を又兵衛が見抜いたからこそ、金打という儀式を行わせたのであろう。

その武士としての素質とは、単に腕力だけでなく、精神的な側面が大きく占めており、具体的には常に本音で人とぶつかりあおうとする姿勢が、しんのすけには存在する。自分よりも遥かに年が上の又兵衛や殿である春日康綱などにも物怖じせずに対等な立場で話をする態度などを見せているが、これは必ずしも非礼な振る舞いというわけではない。、特定の状況に恐れをなして自らの倫理に反する行為を取ろうとしない側面が、戦場で死をも恐れずに大切な国と人々を守るために戦ってきた又兵衛が共感したからこそ、しんのすけは彼に武士として認められたのであろう。

この後、しんのすけはマサオ君と風間君とネネちゃんとボーちゃんのそれぞれの先祖に当たる、まさ、かずま、ねね、ぼうしちと出会いと果たし、共に秘密の場所という所へ向かう。そこは、しんのすけが戦国時代に初めてやってきた場所である、泉のほとりであり、後にしんのすけの家が建つ場所である。しんのすけが偶然ここに辿り着いた、言い方を変えれば戻ってきた理由は、廉の意志による彼女の運命の変化に再び関わるためである。

しんのすけたちの後に、馬に乗って泉のほとりにやってきた廉は草むらに倒れ込んでしまう。先ほどの廉が登場していた場面では、彼女は自らの意志を、その意志の対象者である又兵衛によって否定されてしまい、変わろうとしていた運命は再び元の道を戻ろうとしていた。自らの意志を自覚した矢先において、それを否定された廉の心情から、運命には結局抗うことができないという彼女の絶望が草むらに倒れ込むという形で表現されたと考えられる。

しかし、ここで廉の運命は再び彼女の意志に動き始める気配を見せる。野伏たちが現れ、廉を取り囲んで金目の物を要求するという事態が起こる。これに対して、しんのすけたちは廉を助けようとするが、却って全員が捕まってしまう。それでもしんのすけは廉を守ろうという姿勢を見せつけ、この部分にも前述したように又兵衛に武士として認められたしんのすけの一面が見られる。たとえ勝てる相手でないにしても、廉を守ると言う自分の信念は絶対に守り通すという、前述した自らの倫理を捻じ曲げる行為を取らないわけである。

この直後、又兵衛が現れ、野伏は又兵衛が撃退することとなったわけだが、又兵衛がこの泉に来た理由として「姫様がただならぬ御様子で城を出たと聞き、何故かこの場所が頭に浮かびました」と発言しているが、これは又兵衛がシロの穴を掘る行為と同様の内面の変化が起こっていた事を示唆している。そして、運命に従うしかないことに絶望と感じたと思われる廉がわざわざここに来たのは、単に自分の最も好きな場所で絶望的な現実を逃避したいという意志があったとしたら、又兵衛や野伏たちがここに来たのはまさにしんのすけが戦国時代にやってきたのと同様に廉の意志によって引き寄せられたかのように思える。

つまり、廉がここに来てまず野伏と遭遇し、その後に又兵衛によって危機的状況から救われたことで、廉は又兵衛に自分の意志を明確にする機会を掴む。一介の家臣である又兵衛が姫の廉を救うのは当然の事であるが、廉にとっては自分を守ってくれる一人の男性として、「鬼の井尻」としての又兵衛の姿を目の当たりにしたことになる。一方で、その雄姿は戦場で多くの人間を殺し、自身もいつ命を落とすか分からない身である事の代償でもある。

武士は嫌いであると言う廉だが、その武士に自分の身を守られており、さらに自分の意志における好きな人物が武士であるという皮肉がそこにある。まさにその時代に生まれてきてしまったという運命による悲劇が廉を苦しめているわけで、その運命に対して抗おうとする廉の姿は、又兵衛に抱きつくという行為によって表される。

ただし、それは突然というわけではなく、心情的な段階を踏んでのことだと考えられる。野伏を追い払った後、廉は又兵衛と昔話をしてかつての自分たちの関係を思い出し、さらに又兵衛の傷の手当てを行う事で距離を縮めていき、最終的に又兵衛が好きであるという自らの意志を具体的に行動で表すに至ったわけである。逆に言えば、このような段階を踏まなければ、自らの意志を表明することも難しいという、時代の残酷さを物語っているという解釈も可能かもしれない。

しかし、又兵衛は廉の意志を必死に振り払おうとする。この又兵衛による拒絶もまた、彼のとっての廉に対する愛情表現であろう。前述したように、又兵衛もまた自らの意志を廉に明確にすれば、それが却って彼女を含め周りの人々を傷つけることとなる可能性が非常に高い。つまり、このシーンではたとえ廉がどれだけ自らの意志を強く示したとしても、そもそも家や身分が重視される戦国時代の世に姫君として生まれてきてしまった以上、己の運命を根本に変えるのは不可能である事が示唆されている。そして、又兵衛が廉に対する意志を拒絶したもう一つの理由が、しんのすけとの約束である。しんのすけに嘘つきと咎められたものの、武士である以上、廉に対する己の意志を明確にするわけにはいかなかったとも言える。

一方、しんのすけたちが偶然この泉のほとりで廉たちと遭遇した理由は、本作品における最も重要な要素の伏線を描くためであると考えられる。まさは現代のマサオ君と違って、非常に気が強く4人の中ではガキ大将としての存在であった。かずまはいじめられっ子であり、現代の風間君が見せるリーダーシップや聡明さは微塵も見られなかった。ねねも現代のネネちゃんとは異なり、ウサギを怖がりおとなしい性格のように見え、ぼうしちだけが現代のボーちゃんとほとんど変わらない性格であった。

しかし、野伏に遭遇したことで、ぼうしち以外の3人は自らの本性を露わにしていく。まさは現代のマサオ君と同じ弱虫で、かつ野伏に立ち向かう振りを見せてそのまま逃亡し、その態度からしんのすけに「お前はぶりぶりざえもんか」と咎められている。良くても臆病、悪ければ卑怯なこの態度は、確かに現代のマサオ君というよりぶりぶりざえもんに近いもので、普段は態度の大きいまさに、ぶりぶりざえもんの性格をもあてはめてみようと言う意図が存在していたのかもしれない。さらに、かずまは現代の風間くんを思わせる理屈を振り回す性格を露わにし、ねねはウサギがあったら殴りたいと、現代のネネちゃんに良く似た乱暴な言動を見せる。これらから、現代に生きる彼らの子孫たちとよく似た性格と変化するわけで、野伏に遭遇する前のものは、いわば彼らの偽とも言える性格だと言える。

廉の運命の中に関わった彼らもまた、意志ではないが自分たちの真の性格を露わにしたわけで、これは建前上の行動を行うものの、次第に自らの意志を自覚し、露わにしていく廉の姿を重複させたものであろう。もっとも、作品上においては、前半部分における幼稚園での時代劇の遊びのシーンに絡めた、かすかべ防衛隊の面々を別の形で活躍させるためのものであり、作品のストーリーそのものとの関連は薄いため、それほど重要なものであるとは言い難い。



運命の壁

文箱を土の中に埋めた直後、まるでタイミングを計ったかのようにひろし、みさえ、ひまわり、そしてシロを乗せた車が現れる。これにより、野原一家全員が戦国時代に到着したこととなる。ひろしはしんのすけがいなくなったを知った時、しんのすけの手紙を事実ではないかと思い、穴に向かって吠えるシロの姿や歴史を調べた際に「野原信之介」の名前が出てきた事などから、しんのすけだけでなく自分たちも過去に行くと確信する。

ひろしは自分たちも過去に行くことになると言っているが、この時のひろしの非科学的な事を信じる態度には、廉の意志が内面から影響を受けている可能性を考慮したとしても、「しんのすけのいない世界に未練なんてあるか」とみさえに問い、みさえもその質問に促されるようにひろしに戦国時代に行く準備を進めている事から、廉の意志というよりむしろしんのすけに対する親としての愛情に動かされたと考えた方が自然である。

従って、廉の意志がどれだけ影響していたかは不明であるが、それまで穴を掘っており、おそらくしんのすけが戦国時代に向かう姿を目撃していたであろうシロが、車の中で自分の犬小屋にヒビが入ってしまうのを見てショックを受けているところから、この時点で既にシロは廉の意志に影響されていないことが分かる。何よりも車に乗せられた時点で不機嫌に見える表情をしていた事は、シロはあくまでも付き合わされているに過ぎないという立場を物語っている。このシロの様子から、この時点では野原一家は廉の意志の影響を、少なくとも直接の行動においてまで受けていないであろうという推測ができる。

野原一家が戦国時代に到着した後、先ほどの野伏の彦蔵と儀助を自分に仕えることを許した又兵衛は、ひろしたちの車の後を馬で追いかけるが、ひろしは車の速度を上げ、又兵衛は馬を早く走らせる。しかし、車との差は広まっていき、やがて車は又兵衛の視界から消え、彼の馬も疲れて止まってしまう。車の後ろのシートに乗っていた廉を見届けた又兵衛は、車が走って行った先を虚ろな表情で見つめていたが、廉がどれだけ又兵衛に対して、そして又兵衛も廉に対してどれほど想いを抱いていたとしても、身分という壁によって決して両者の想いは実ることは無い。

又兵衛にしてみればそれで良いのかもしれないが、廉に武士が嫌いだと言われ、又兵衛にとってそれは半ば自らの人格を否定されたに等しい言葉である。一方で、あくまでも一人の人間としての又兵衛に想いを抱く廉。その人物を守るためには、又兵衛はあくまでも彼女の嫌いな武士として、多くの人間を殺さなければならない。自らの存在に対する矛盾を抱え、そして自らもいつかは死ぬかもしれない。又兵衛の表情から、様々な事が読み取れる。ここでは、廉と決して結ばれることのない又兵衛との決定的な断絶を象徴しており、その断絶に対して又兵衛は自らの運命、この世ではただ一人の家臣として、戦で一つの捨て駒として死ななければならない運命でいる自分自身に対して、疑問を感じているようにも見える。

城に到着した後、ひろしは康綱に現代の春日部にはこの時代の名残がほとんど無い旨を告げる。康綱は国を守るために戦に明け暮れていようと、いずれは消え去り、さらには同時代の大国までもが滅び去っている事に虚しさを覚えるが、当然とも言える心境である。自分たちの行っている事はどの成果も全てが消えてしまい、後世には忘れ去られて闇に葬られているわけで、それを認識した康綱は大蔵井高虎からの廉の嫁入りについての申し入れを断る事を決める。

廉は康綱にとって唯一の家族である。その最後の家族を自分の元に引きとどめようとしたのは、国のためにではなく自分のためにという思いからである。自分の国を守っている春日がいずれ消えて無くなってしまう事を知ってしまった以上、国のためとは言え自ら家族を引き裂くことに躊躇するようになったのは想像に難くない。

しかし、廉は「戦などになりやしませぬか」と訊き、ひろしも戦国時代に来る前に図書館で読んだ本に書かれていた通りに、つまり戦になるのではと懸念している。つまり、傍から見れば戦を誘発する危険性を孕む決断であり、もし戦になれば康綱にしても廉と共に過ごすというささやかな幸福を享受してはいられなくなる。戦になって、敗北したら廉が嫁に出るよりも遥かに悲惨な事態になるのは言うまでもない。

つまり、戦の危険性と言うリスクを考慮すれば、康綱が廉への申し入れを断るのは非常に奇妙な行為である。ただし、絶対に戦になるとは限らず、戦になっても勝てる可能性も全くの皆無ではない事から、嫁入りという形で確実に廉と別れてしまうよりも、いくらかのリスクを背負った上で家族への幸せを康綱は優先したのかもしれないが、一国の殿である人物がそのように考えているとも言い難い。

ここから、実は康綱自身もまた、何らかの力によって廉の意志の影響を受けているとも言える。康綱は内面的に廉の影響を受けた上で、ひろしの話を聞いて戦を誘発する決断を下す事となり、いずれはどこかに嫁入りするという廉の運命を変えたわけで、これもまた廉の意志が運命に抗った行為の結果であると言える。

その後、申し入れを断られた大蔵井高虎はその事を口実にして、戦を行うように命じる。戦を知らされる直前のシーンで、廉は木の花が落ちているのを目にするが、桜は別にして木の花が落ちているのは、どちらかと言えば悪い印象を与える。花が木から落ちて、形のあるものはいつか滅びる事を暗示しているのかもしれない。ここでは、廉がどれだけ又兵衛を強く想っていたとしても、彼がどれだけ自分を守るために働き、「鬼の井尻」として木の花のように皆から注目を集めるような存在であったとしても、いずれは命を落とす運命にあり、今後の又兵衛、そして同じく自分を守っている大勢の兵士たちに待ち受ける不条理な状況と重なっているとも見える。

さて、その戦の開始が近づき、康綱は自分の家臣であり家老の隼人が逃げ出した事を咎めようとしない。隼人が逃げたのは自分のためであり、自分自身を優先したという点では、廉への申し入れを断った康綱も同じである。康綱が隼人だけでなく、他の家臣たちにも去っても良いと告げるが、これは自分の意志を尊重する事を良しとする自らの考えを示したわけであるが、兵庫助は康綱に仕える事自体が自分たちの意志であるという旨の発言をする。

たとえ滅びてしまおうとも、多くの家臣たちにとっては自分たちの国を守る事自体が幸福であり、康綱は自らの幸福を追い求めたために戦を招き、戦によって家臣たちは幸福を見出すという皮肉を知ることとなる。又兵衛と廉が結ばれない運命であるのも、後世に何も残さないであろう戦で命を懸けざるを得ないのも、この世がいかに不条理であり、その不条理の中で意志を貫き通すいかに困難であるかを示していると思われる。これは、後に又兵衛たちの部隊が出撃する際に、仁右衛門が又兵衛に出撃に参加しないように告げると仁右衛門は「残れと言うなら腹を切った方がマシだ」と言っており、武士として戦場で死ぬことは決して不幸ではない事を暗に主張している事から、兵庫助らと同じ態度でいる事からも伺える。

戦が始まると、しんのすけは又兵衛のもとに駆けつけ、ひろしが連れ戻しにやってくるが、このしんのすけの参加はストーリーの上では何の意味も成していない。しかし、あえてしんのすけを飛び入りのように参加させたのは、あくまでも主人公はしんのすけであるという事を観客に再確認させるという意図によるものであろうが、しんのすけ自身にしてみれば、自分にも何かできる事をしなければならないという思いが湧き、自らの倫理に反する行為を決して取らない性格のためにあえて戦場の最前線に飛び込んだものと思われる。しんのすけは又兵衛に来るなと咎められ、ひろしに連れ戻されるが、それを不満とすることもない。自分が必要とされていなければ行動を取らない。このような潔さにも、しんのすけが又兵衛に武士として認められた片鱗を垣間見ることができる。

その後、戦が一時中断し、ひろしたちは車で脱出するように又兵衛に言われる。この際も、しんのすけは自分たちに何か手伝える事は無いかと尋ねている姿もまた、武士としての側面が垣間見える。又兵衛たちが出撃した後、廉は「外の様子が見たい」と言って、戦場の様子を見に行こうとするが、吉及がそれを止めようとする。吉及は廉の心情を察している事を告げ、「それはなりませぬ」と言っているが、この台詞は廉に対して運命には逆らえないという意味が含まれている。

廉は又兵衛に対する想いを持ち続けてきたわけだが、彼女の運命はその意志を妨害する存在として大きく立ちはだかっている。守旧的とも言える吉及の台詞は、まさに廉に対して己の運命に従えと告げている事を意味しているわけだが、これに対して廉は「吉及の馬鹿」と言って、外に飛び出してしまう。まさに、廉が自分の運命に抗うという意志を言葉と行動で具体的に示したシーンであり、その意味では野伏を追い払った又兵衛に抱きついた時と、行動の点では一致している。

しかし、吉及は涙を流して、自分が廉を追うと言っているが、この時の吉及の表情から嬉しいという気持ちは見られない。廉が家臣の又兵衛に対する想いを露わにしたら、身分が重要視される時代において、周囲の人間に大きな迷惑を及ぼすこととなる。涙を流した吉及もまた、廉の意志に対して傷ついていると思われる。意志をどれだけ強くしようと、運命には抗えないわけである。



赦し

車で城を出た野原一家は戦場から逃げのびるものの、ひろしはしんのすけに「お助けしなくていいかな」と言われ、戦場に飛び込む決意をする。廉も指摘していたように、野原一家は元々この戦には何も関わりは無く、命の危険を冒してまで助けようという義務は無い。

確かに、ひろしの言葉が康綱に廉への申し入れを断り、それによって戦が起こったため、戦の原因はひろしにあると言えなくもないだろうが、そもそも戦を招いたのは康綱の決断であり、また実質的に戦を引き起こしたのは敵側の高虎であるため、ひろしに直接の責任があるとは言えない。また、みさえやしんのすけまでも巻き込む事となってしまう。つまり、ひろしのとった行動は彼が言うように、又兵衛らに対する「義」、もしくはやはり廉の意志が影響し、ひろしたちの内面に影響を及ぼし、戦場に飛び込ませるように促したとも考えられる。

戦場に来たひろしたちは車で高虎の兵たちを脅かし、それまで又兵衛たちに不利であった形成は一気に逆転する。そして、野原一家は遂に大将の高虎と対峙することとなり、野原一家に助けられた又兵衛たちもやってくる。又兵衛らが高虎の近衛兵の役割を果たす馬廻衆たちを戦っている間、高虎は又兵衛らの戦闘を見て後ずさりし、その場から離れようとする。自ら戦を仕掛けたにもかかわらず、いざとなったら逃げようとするというこの場面に、高虎の品性の卑しさが露わになるわけだが、その人間性の欠陥とでも言うべき側面が暗示されている場面はその前にも存在する。

大蔵井の足軽であった彦蔵と儀助は、又兵衛や仁右衛門と共に戦い、高虎の馬廻衆たちとも渡り合うほどの戦闘能力を持っている事が伺える。それだけの戦闘能力を持っているのに、野伏にまで身を持ち崩したのは、高虎が二人を不遇な扱いをしていた事が想像できる。二人の能力が見抜けなかったらしいという高虎の人間の程度の低さが示唆されている。また、高虎は昼の戦闘中に気長にやると発言しているが、長時間の戦闘では兵士たちをそれだけ疲弊させることにもなる。ここから、兵士たちを消耗品のように扱う高虎の人間的な欠陥が窺える(※4

さて、逃げようとする高虎に対して、しんのすけが制止して逃げるのは許さないと言う。ここで、物怖じせずに自らの倫理に従って行動をするしんのすけの武士としての側面が、本作品において最も強く表されている。そして、高虎はしんのすけに刀を振り下ろそうとするわけだが、高虎の怒りはしんのすけに自分の弱さを指摘された事によるものであり、両者が外見と内面において対比をなしている。しんのすけは何も武器を持たず、全くの丸腰であるのに対して、高虎は南蛮胴という華奢な鎧に身を包み、刀を2本所持しているという点でしんのすけよりはるかに優れている。

一方、内面の方ではしんのすけは前述したように、命の危険も顧みずに自分の信念を貫き通そうとするのに対して、高虎は親玉としての責任を放棄するかのように逃げ出そうとし、しんのすけの咎めに対してまともな反論ができず、ただ黙れとしか言えず、遂には刀を振りかざす始末である。しかし、その高虎の刀はみさえによって受け止められ、ひろしに顔を叩きつけられ、最後に股間をしんのすけの頭突きで倒されることとなる。

又兵衛は高虎の首を取ろうとすると、しんのすけはそれを止めようと又兵衛への説得を試みる。「目の前に敵の大将が倒れていて、その首を取らぬ馬鹿はいない」と言う又兵衛は、最後にはしんのすけの説得を受け入れ、髻(もとどり)だけを取る。首を取らないで「馬鹿」となった理由は、又兵衛としんのすけの信頼関係によるものだと考えられる。

又兵衛はしんのすけと金打をするほど彼を信頼し、武士としての常識的な行為をするよりも、あえてしんのすけの意志を尊重することにした。確かに戦場において人を殺すのはやむをえない事かもしれない。しかし、勝負がついた時点で、手柄を証明するという、己の名誉のためだけにまで殺人行為をすることをしんのすけは望んでいない。しんのすけにとっての又兵衛は、決してそのような残酷な武士ではない。しんのすけの知る又兵衛は、時たましんのすけにからかわれて怒ったりもするが、自分に刀を振り回してきた野伏たちを殺さず、それどころか金子を渡してチャンスを与え、それによって敵だったはずの彦蔵と儀助が敬うほどの高潔な武将である。又兵衛は「赦す」ことのできる人物であるからこそ、しんのすけの意志が伝わり、あえて「馬鹿」になれたわけである。

自分と同じ武士であるしんのすけを悲しませない、信頼関係に傷をつけないために、又兵衛はいかなる者であろうと「赦す」ことのできる真の自分自身に振り返ることができたことで、あえて高虎の首を取ることは無く、髻だけを切り取るという、いわば形式的に自らの勝利の確認にとどめたと言える。



銃声

戦が終わり、又兵衛は城に戻る途中、しんのすけに廉の存在を指摘され、「またお前はいいかげんなことを」と言って機嫌を悪くするが、しんのすけに対してこのようなわずかな怒りをぶつけることの背景には、戦が終わり、戦国時代において日常の生活が戻った事を示している。

しかし、その日常に戻るとすぐに廉の運命は総仕上げの段階に向かう。銃声が突然鳴り響き、又兵衛は倒れ、そして死ぬ。又兵衛を死に追いやった銃声は、誰が放ったものなのか。それは作中では何も描写されておらず、誰が撃ったかについては、永遠の謎となっている。ただし、一つ言える事は最初に又兵衛が登場した時、彼は死ぬはずであり、彼の死はそもそも免れ得なかっただろうが、その死は先延ばしにされきて、銃声によってようやく元の正しい状態に戻ったわけである。

廉は後に「又兵衛がいずれ戦で命を落とすことを、私は判っていたのかもしれない。多分、又兵衛自身も」と言っている。この台詞は、廉も又兵衛自身も、又兵衛が生きている事自体がそもそも非現実的であり、彼女はその又兵衛と結ばれる事はあり得なかった事を感じていた事を示唆する。確かに、廉は又兵衛が好きであり、それを泉のほとりで又兵衛自身に、そして戦の最中に吉及にその意志を示す言動を見せている。廉は又兵衛と結婚したかったというしんのすけの質問を否定していない。

しかし、又兵衛がしんのすけに強調していたように、身分があるために、その願いは決して叶う事が無い。廉がその意志あくまで貫き通そうとすれば、それによって一番傷つくのは廉自身ではないだろうか。前述したように、一介の家臣である又兵衛は廉が好きになってしまった事を悔やみ、しんのすけと金打を行ってまでその事実を闇に葬ろうと努力をする。泉のほとりで廉に好きである事を示されても、それを必死に拒否しようとしていた数々の態度から、又兵衛は自分と廉が結ばれようとするのは、絶対にあってはならない事だと認識していたのは想像に難くない。

そのような事情から決して自分に振り向いてくれない又兵衛に対して、廉は自らの意志で又兵衛の望んだ通りにしたわけで、それが銃による死であったのではないだろうか。つまり、又兵衛は自分にとって大事な国と人を守るという自らの役割を終えたら、潔く死ぬという事を、おそらく意識していなかっただろうが望んでいたと思われる。又兵衛を撃った銃は、又兵衛の意志が廉のそれと呼応した結果によるものと解釈ができる。そして、それは廉の意志が決して運命に従わないという姿勢の最終的な結果でもあった。

国のために、顔も見たことのない殿の元へ嫁ぐこと、それが廉に課せられた運命であった。しかし、彼女は21世紀の人間と同じ心を持つ一人の人間として、大好きな人と一緒になりたいという強い意志を持ち、その意志が自分の最も好きな場所に住む野原一家に、何らかの力の存在によって伝わり、彼らを自分たちの元へ誘った。

そして、本来ならば岩月との戦で二人の兵の銃撃によって死ぬはずであったであろう又兵衛はしんのすけに救われ、又兵衛も廉も己の心境を自覚していく。廉はやがて、自分の意志がどのようなものかも強く意識するようになる。その矢先において、廉は自分の意志を又兵衛自身に拒否され、泉の絶望に暮れていると野伏と遭遇し、そして又兵衛に助けられたのも、ひろしの話で康綱は高虎の申し入れを断り、それによって戦が起こったのも、そしてこれらのきっかけの大本である、野原一家が戦国時代にやってきた事も、全てが廉の意志によって引き起こされた事だと言える。

つまり、「戦国大合戦」という作品は、一人の姫君の意志が自身の運命に抗おうとし、その運命を変えるために周囲の人間は惑星の運行の如く、自分たちの中心に存在する廉の意志に従って行動をしたという内容であり、本作品の本当の敵は、実は廉の運命そのものであったと言える。しかし、時代の事情ゆえ、廉が又兵衛と結ばれるという彼女の意志はそもそも叶うはずが無く、さらに又兵衛の死は必然であった。

それでも彼の死が先延ばしとなったのは、本来ならば死んでいるはずの又兵衛が生きているという非現実的な日々の中で、廉は自身の意志を自覚するようになり、春日が大きな侵略から守られたという時点で、又兵衛は本来の死へと旅立つこととなった。自らの意志を知った事で、廉は己の本意が何であるかを知り、彼女は最後に「私はこれから先、誰にも嫁がない」と言う。

又兵衛と決して結ばれないのは運命であり、これだけはどうしようもなかったわけであるが、それは敵である自身の運命に、彼女は負けたのか。その答えは否であろう。なぜなら、そもそも彼女が自らの運命に従っていれば、自分自身の意志がいなかるものであるのか、自覚さえしなかったであろうから。自分の意志を自覚し、それを完全な本意ではないものの、廉の「誰にも嫁がない」という言葉に表れているように、自らの本来の運命とは異なる方へ行く決意をする。廉は、決して自らの敵に負けたわけではないのである。

さて、又兵衛の死は非常に奇妙なものである。なぜなら、これまでの原恵一監督の劇しんの作品において、善人であろうと悪人であろうと死者が出ることはなかったにも関わらず、本作品では主に兵士たちの死を大量に描いているからである。戦をリアルに描いているのだから当然ではあるが、これほどの死者が出る作品は、劇しんのおいて例の無い事である。そして、その死にも人物によって描かれ方が大きく異なっている。あくまでも捨て駒として戦っていた兵士たちの大量の死は機械的に描かれている一方、又兵衛の死に対しては極めて崇高かつ悲劇的に描かれている。

そもそも兵士たちの死は戦の最中であり、又兵衛の死は戦の後であるというところに違いがある。戦では、人間の命が大量に「消費」されることから、それを描く事で、戦争の醜さを描いているわけである。本作品は、戦の様子を娯楽という形で観客に提供する一方、戦争は否定されるべきものであるという姿勢を、兵士たちの大量かつ機械的な死と又兵衛の死を対比させることで示していると思われる。それにより、廉が侍を嫌う本質的な理由がここで明らかにされている。

しんのすけは、又兵衛の死に対して涙を流す。又兵衛に泣くなと言われるが、この時の又兵衛は自分が近いうちに死ぬ運命にあり、それが遅れてやってきたに過ぎない、本来ならば悲劇などではないと、自分に言い聞かせたのかもしれないが、しんのすけにしてみればそれを悲劇以外の何物と捉えることもできない。確かに、しんのすけは又兵衛とは金打の約束を交わしたほど信頼し合う仲であったが、その又兵衛はいつ死んでもおかしくない身であり、武士であれば自分はもちろん仲間の死も覚悟しなければならない立場であるかもしれない。

一方で、武士とて人間であり、仲間の死に涙を流す弱さも持っている。それは、高虎のような卑劣という意味での人間的な弱さとは別であり、仲間の悲劇にはただひたすら悲しむ以外に何もできないでいるという弱さである。仲間を想う弱さがあったからこそ、しんのすけは高虎をも助けた。人の命を無駄に犠牲にすることの愚かさが高虎に対するしんのすけの言葉で示され、又兵衛の死によって涙で表されたのである。

仁衛門も彦蔵も儀助もまた涙を流し、誰が撃ったかを問い詰めていたが、彼らは涙を流すだけでなくそのように問い詰めるだけの理性を留めることができている。彼らは高虎の首を取ることにおそらく反対しなかったであろうが、それは戦国時代に生きてきたことで価値観がしんのすけと異なるためであり、また大人であることがどのような時にも理性を留めさせたのだと思われる。

しんのすけは子供であるからこそ、又兵衛の死の悲劇を全面的に直視せざると得なかったわけで、だからこそ高虎の死にも反対したのである。又兵衛に認められたしんのすけの武士としての気構えは、子供である事が大きな要因であったとも言える。



青空侍

後日、泉のほとりにて、しんのすけは又兵衛と結婚したかったという廉の心情を知り、又兵衛の心情を言おうとすると廉に止められる。すると、しんのすけは又兵衛にもらった右手指で金打を行う。又兵衛に自分の心情を誰にも話すなという事を言われたのに、その約束を破ろうとしたために、もう一度あえて約束を交わすこととした。たとえ死んだとしても、生きている時と同じように、約束を守り続けるという姿勢である。死してなお、又兵衛の存在が消える事はないという畏怖の念を抱いたからかもしれない。

野原一家が現代に戻る際、彼らには戦国時代に来た時のような戸惑いの姿は見られず、廉に別れの挨拶をしていたように、戻れる事を確信している。そして、現代に戻った時には何の驚きも喜びの表情も見せておらず、戻れた事を当然と受け止めている。しかし、なぜ戻れる事を確信していたのか。廉の運命が彼女に自らの意志に従うようになり、野原一家は自分たちの役割が終わった事を感じていたからであろう。

そのように感じる源は、前述してきたように何か大きな力が働いていたからかもしれないが、現代に戻った際の野原一家の表情などからは、非日常から日常に戻ったという様子が見られない。つまり、野原一家の内面は外面と共に大きな力の影響により、非日常を日常の如く受け入れるだけの精神的な状態が冒頭の夢から最後まで続き、幼稚園のシーンを除けば、本作品において野原一家は日常の体験をしていなかったと解釈することができる。

このように、本文では野原一家に起こった出来事を非現実的な非日常とみなしていたが、見方次第では全く別の解釈も可能であるかもしれない。実は非日常とされた出来事が、作中では日常の出来事として捉えられる可能性が存在するわけである。つまり、本作品は劇しんの中で唯一非日常が描かれていない作品であるのかもしれない。

本作品は廉の意志が運命に抗う事が話の軸であり、野原一家もそれにただ引き寄せられただけであり、決して非日常の描写ではない。確かに、野原一家が戦国時代に向かうのも、非現実的ではある。しかし、その具体的な描写は存在しない以上、彼らが如何にして戦国時代に行ったのかは知る術がない。現代科学からすれば、野原一家が戦国時代に行くのはありえない事である。

しかし、現代科学は必ずしも絶対というわけではなく、もしかしたら従来の定説が覆るという可能性もごくわずかであろうが有しており、この世の謎が残り続ける限り、現代科学では考えられない出来事もありうる。しかし、作中のように、実際に過去に行く事があり得たとしても、現代の人類は如何にして過去に行くことが可能なのかを知る術を持っていない。

だからこそ、過去に行くシーンは描かれていないわけである。現実の世界においても、もしかしたら造物主のようなものは存在するかもしれず、たとえ存在しなくてもこの世は現代科学を覆しうる要素を持っている。しかし現代科学を超える存在は誰にも確認することができない。野原一家が戦国時代に行ったのは、造物主あるいは人類には確認できない他の要素によって現代科学が覆る可能性を示唆する現象であり、その様子が描かれていないのはそれを知る術など存在しないからであろう。ここから、実は本作品は必ずしも非日常、つまりありえない話というわけではないとも言える。

現代に戻った野原一家は、空を見上げると又兵衛の旗に描かれていたのと同じ雲を見つける。それに向かってしんのすけは彼の右手指を掲げるが、この場面はしんのすけこそが又兵衛を継承する者として描かれていると思われる。作中の仁衛門が「井尻の家名が途絶えたら何にもならんぞ」と言っており、又兵衛や既に亡き彼の兄弟たちには子供がいない事が分かる。つまり、又兵衛の死によって井尻の家名は断絶してしまった事となる。さらに、廉も「誰にも嫁がない」と言っており、康綱の唯一生き残った子供である廉が嫁がない以上、康綱の家名も血の上では断絶することとなる。

一方で、戦に勝って城に戻る際、又兵衛はしんのすけから自分の右手指(めてざし)が欲しいと言われ、父親の形見である右手指を渡すことを拒否する。しかし、又兵衛は死の直前になると、しんのすけにそれを与えている。銃を撃たれた又兵衛は自らの死が目前に迫り、本来ならば井尻の名を継ぐ者は存在しないが、その時の彼には自身の継承者に相応しい人物、しんのすけがそこにいた。だからこそ、彼に父親の形見であるほどの大事な右手指を渡し、自分の跡を継ぐ者として認めた。又兵衛は、死ぬ直前になって、しんのすけを侍としてだけではなく、自分の子であり継承者としても認めたわけである。

さらに、廉は誰にも嫁がないと言っているが、前述したように又兵衛が廉の最も好きであった人であり、彼女は又兵衛以外の男と結ばれる事を毅然と拒否したのである。一方で、廉が又兵衛と結ばれる意志を持ち、又兵衛がしんのすけの父親なら、廉はしんのすけの母親となるかと言えば、それはおそらく考えられない。なぜなら、廉はただ又兵衛を想い続けるだけであり、その廉に対してしんのすけが子供として継承者になりうる余地は存在しないと考えられるからである。

本作品は、あくまでも廉という一人の女性が自らの意志に従うために、自身の運命を変えていくのが中心となる話であり、野原一家らはあくまでもその運命を変えていく一要素で、中心となる廉の周りを惑星の公転の如く運行する存在にすぎないのは前述した通りである。21世紀から戦国時代にやってきた者が一人の青空侍の継承者なったのは、作品としては副次的な産物である。しかし、本来ならば歴史の闇に葬られる運命にあったこの青空侍の存在が、21世紀の一つの家族によって知られ、その家族の子供に継承されたというのは、造物主としての存在のきまぐれ、あるいは現代科学のわずかなほころびによって生じた一つの奇跡であり、また愛する人のために国を守って生きるといった人間の尊厳がいつの時代でも存在しうることを描いたとも言える。

作中でひろしやみさえは、戦国時代で鶴やトキが飛んでいることに驚愕しているが、天正2年はまだ人類が他の動物たちから飛躍しておらず、共存していた時代であった。21世紀の人類は、自動車をはじめ戦国時代の人間を驚愕させるものを生み出す現代科学を手にしているが、動物たちを一方的に支配する立場にもなっている。現代人とは全く異なる時代で生きていようと、カレーやビールが康綱や又兵衛たちにも好まれるなど、戦国時代の人々の嗜好は現代人にも共通するところがあり、そして人間としての意志や尊厳もまたいつの時代の人間にも共有することができる。時代が異なっていようと、人間である以上は互いに理解しあえる。

最後に、廉もまた野原一家と同じように空を眺め、涙を流しているが、そこで彼女が見た空の光景が何であるかは分からない。野原一家の見た空と違っていたかもしれないし、偶然にも似たような空だったのかもしれない。あるいは、またしても現代科学を飛び越えた現象であり、時間を超えて同じ空が映っていたとも考えられる。

いずれにせよ、野原一家も廉も、空を眺めることでそれが好きであった一人の侍を思い出していたのは間違いない。生きる時代が異なろうと、同じ心情を共有しうることがここでも描かれている。ひろしが康綱に言っていたように、21世紀の春日部には、戦国時代に春日の名残はほとんど残っていない。廉の存在も歴史上からは忘れ去られているだろう。だからこそ、歴史の闇の埋もれていった一人の女性の意志が己の運命を変えたからとて、歴史そのものを変えることにはならず、運命を変える事が許されたのかもしれない。

歴史上においては、極めてささやかな一人の女性の意志が自らの生き方を変えた。その女性が見る空には、おそらく常に自分の想い続ける人物が映っているであろう。一人の青空侍の姿が。




脚注

1 ^ 「ジャングル」の冒頭シーンでは、作中での劇場版作品「南海ミレニアムウォーズ」の怪人がオリジナルのキャラクターとして登場しているが、ストーリーと直接の関わりを持つ主要なキャラクターとは言えない。
2 ^ 第1作目の「ハイグレ魔王」でアクション仮面とミミ子が、「暗黒タマタマ」では野原一家が登場していたような例外に当たるも存在する。
3 ^ 厳密に言えば、幼稚園のシーンが挿入されているため、全てのシーンが非日常として捉えられるわけではない。
4 ^ ただし、身分の高い者が低い者の命を顧みないのは、当時の価値観では必ずしも不自然ではないと思われる。






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