爆発!温泉わくわく大決戦





劇しんの各作品における作風は、その作品の監督の嗜好が大きく反映されており、第7作の「温泉わくわく」も例外ではなく、それどころか原恵一監督の趣味が最もよく表れた作品の一つであると言えます。

タイトルからも分かるように、テーマは「温泉」であり、仮にも建前上は子供向けの映画で、大人向けを大きく意識した、そうでなければ、ただ自分の趣味にひたすら走っただけの、リスクの大きいテーマです。

結局、この作品でも、当時右下がりだった劇しんの興行収入を立て直す事はおろか、劇しんの中でも最低の興行収入という記録を作ってしまった、つまりリスクを背負う羽目になってしまったのです。それでは、興行収入だけで見れば、最大の「失敗作」であるこの作品は、数ある劇しんの作品の中で、いかなる存在であるのでしょうか。

この作品は、これまでの劇しんから、さらに大きな変化を遂げています。まず、オープニング前のプレタイトルシーンでは、ふたば幼稚園の先生が中心的存在となっています。

これまでの劇しんを振り返ると、プレタイトルシーンはその作品のオリジナルキャラクターのみが中心的存在でした(ハイグレ魔王ではアクション仮面が登場していますが、これはテレビアニメ版とは異なる、パラレルワールドでのアクション仮面であり、オリジナルキャラクターとの解釈が可能です。また、「暗黒タマタマ」には野原一家が登場していますが、こちらはプレタイトルシーンにおける中心的存在としての機能は全く果たしていません)。

それが、この作品を境に、野原一家をはじめテレビアニメのレギュラーキャラクターその主流を果たすことになります。「暗黒タマタマ大追跡」で、同作品から悪役が大きく精彩を欠くようになったと書きましたが、このプレタイトルシーンの変化は、敵味方関係なく、劇場版のオリジナルキャラクターがさらに精彩を欠くようになっていくことを示していると言えます。

逆に言えば、これ以降の劇しんは、各作品のオリジナルキャラクターよりも、むしろテレビアニメのオリジナルキャラクターを作品にどう生かしていくかを重視するようになっていったわけです。

また、この作品では、「オカマ」の存在に対する明確な言及が初めて無くなっています。一応、オカマはキラー・フィンガー・ジョーが登場していますが(言葉遣いやしぐさ、また草津隊長の出したデータの中に「SEX:NO DATA」(性別:不明)とあることからも、オカマであるのは明白)、これまでの作品に見られたオカマならではのテイストはもはや影を潜めてしまっています(せいぜい、「や〜ね〜、おキンタマだなんて」という台詞程度)。

原作の臼井氏は、「クレヨンしんちゃんにオカマは欠かせない」、「オカマを入れるのは僕(臼井氏)のサインだ」と語ったことがあるそうですが、それを踏まえると、「温泉わくわく」における「現象」は、劇しんが臼井氏からさらに離反、言い換えれば独立していっているものを示しているものだと考えられます。

さて、プレタイトルシーンの登場人物の変化から、劇場版のオリジナルキャラクターよりも、テレビアニメのレギュラーキャラクターを作品の中にどう生かしていくのかを重視するようになっていたと前述しましたが、「温泉わくわく」においては、それはまだあまりなされているとは言えません。

それどころか、「温泉わくわく」のパンフレットの中で、しんちゃん役の矢島晶子氏が語っていたように、この作品は、特に前半、草津、アカマミレ、温泉の精の3人に乗っ取られているような感があります。これは、オリジナルキャラクターが精彩を欠いているどころか、むしろ逆で、非常に存在感の大きいと言えます。

そのため、「温泉わくわく」はほかの劇しんの作品の中でも、やや浮いた存在、言い換えれば当時の劇しんが一つの過渡期であることを示していると見ることも可能です。

その一方、この作品も前回に引き続き、「愛」が大きなテーマの一つで、しかもそれはより一層強調されています。

この作品は、「温泉」がテーマであり、しかも主人公の幼稚園児とその父親はおねいさん好きです。そして、この二つの要素が相乗効果を生むことで、他の作品に比べ、お色気度が大きく増すのは必然であります。

特に、指宿と後生掛がこの作品にお色気をもたらしているのですが、おねいさん好きの主人公の父ひろしはそれに振り回されっぱなしであり、そのために二人から(ジープの運転など)いいように使われたりします。そして、それによって引き起こされる、さらに深刻な問題は、みさえとの夫婦仲が悪化してしまうことです。

この悪化における落ち度は、言うまでもなくひろしの方にあり、この作品では彼の人間的弱さ、卑しさが強調されて描かれています。そしてその卑しさが最もよく表れているのは、YUZAMEに捕まり、尋問を受けている時、指宿と後生掛に「たく、良く言うぜ。元はと言えば、お前らが・・・」と言うシーンです。

この直後、みさえが「不発弾処理よ!」とアカマミレたちに主張しますが、このひろしとみさえが対比されることで、ひろしの卑しい側面がより浮き彫りとなっています。

このシーンの前にも、ひろしは自分をプロの営業と自称しておきながら、その直後見境なく酔ってしまったりと、駄目な人間としての側面が強調されて描かれています。

そして、そんな父親に対し、しんちゃんからは「だから出世できないんだゾ」と言われ、ひまわりからは、不健康ランドのどちらが自分の父親かを当てる問題で、その存在を無視されたりもします。このような展開は、テレビアニメ版でもさほど珍しい展開ではありませんが、この「温泉わくわく」においては、前述したひろしの人間的弱さ、卑しさがより一層強調されたものとなっています。

しかし、YUZAMEに山に捨てられた後、家に帰るところから、家族愛に目覚めるようになります。そして、金の魂の湯でのシンクロナイズトスイミングのシーンは、ひろしとみさえの夫婦仲の修復のみならず、野原一家が家族愛に目覚めた事を示すものだと言えます(そもそも、一人一人の動きが全て同時化(シンクロ)しなければ、シンクロナイズトスイミングは出来ないが、そのためには互いがいがみあっていてはならない)。

そして、温泉戦隊に変身後、最初はバラバラで(2組になって)戦っていた野原一家は、しんちゃんの合体ワザしかないという台詞で、再び家族愛に目覚め、家族が一つにならなければ(シンクロしなければ)、敵を倒すことが出来ないのに気付きます。

これは、温泉(風呂)によって家族間のいさかいは無くなり、「愛」を目覚めさせるという事を暗示しており、草津隊長の「裸のつき合いをすれば、つまらんいさかいはなくなる」という台詞と一致(シンクロ)することにもなります。

前作の「ブタのヒヅメ」で確立した、家族愛というテーマは「温泉わくわく」にも引き継がれ、むしろさらに強調されることで、その後の劇しんにも大きな影響を与えたと言えるのですが、その一方で原監督の趣味に走りすぎたために、興行収入の回復にはつながらず、却って最低の記録を作ってしまったのです(だからと言って、断トツに低いわけでもはないが)。

そして、原監督の趣味に走ったという点では、「オトナ帝国」や「戦国大合戦」も同様ですが、こちらは興行収入から見ても、また社会的な評価から見ても、大きな成功を収めています。「温泉わくわく」があまり成功しなかった要因は、「オトナ帝国」と比較することで、浮き彫りになってきます(「戦国大合戦」については、ここでは触れないことにする)。

両者の最大の違い、それは「普遍性」の有無にあります。即ち「オトナ帝国」には多くの(大人の)観客が共感できる、普遍的な要素があったのに対し、「温泉わくわく」にはそれが無かったわけです。

どちらもノスタルジーがテーマの中に含まれていますが、「温泉わくわく」の場合、そのノスタルジーの「範囲」を大きく限定してしまっています。具体的に言えば、それは怪獣映画であり、長嶋茂雄の(現役時代の)背番号だったりするのです。

怪獣映画や長嶋茂雄の背番号に、大人の観客の誰もがノスタルジーを感じられるわけではありません。ましてや、アカマミレが風呂嫌いになったその原因を、観客が共感できるわけもあるはずがありません(劇中でも、アカマミレに共感していたのは草津隊長のみ)。つまり、作品の中に露骨なまでのバカバカしさを挿入し、それが何の効も奏さなかったのです。

そして、バカバカしさといえば、野原一家の家族愛についても言える事があります。温泉戦隊野原一家のコスチュームは相当滑稽なものです。そして、それに対し、草津隊長は「温泉って素晴らしい」と、アカマミレは「やっぱりバカだ」と評していますが、観客の(客観的な)側からすると、味方の草津隊長に全面的同意は非常にしづらい、つまりバカバカしさゆえに、味方に共感出来ないようになっているのです。このようなバカバカしさに走ったことが、ヒットを妨げた側面を持っているように思われます。

また、「温泉わくわく」は、終盤以外、しんちゃんが傍観者に回りがちになっています。傍観者に回りがちになるのは、「暗黒タマタマ」と「ブタのヒヅメ」に似るところですが、この作品においては、主人公に代わるキャラクターとして、草津隊長の存在が挙げられます。

草津隊長は、しんちゃんと同様、極めてマイペースな性格で、「草津の湯」に水を埋める行為以外、しんちゃんのすることに共感しています。つまり、彼はしんちゃんの代替にもなり得る人物であったがゆえに、肝心の主人公の活躍の場が狭められてしまったとも言えるのです。
そのためか、次回作の「嵐を呼ぶジャングル」では、劇場版のオリジナルのキャラクターに大幅な変更が加えられることになります。

「温泉わくわく」には、他にも特筆すべき点があります。原監督以後、悪役造型が変化するようになりましたが(暗黒タマタマ大追跡参照)、「温泉わくわく」では、それに更なる変更が加えられているのです。

それは、絶対悪が遂に崩れたという事です。アカマミレは、最後金の魂の湯につかったことで、善人となりますが、それ以前も絶対悪とは言えないような悪役です。なぜ彼が悪へ走ったか、それが語られるようになったからです。

これまでの劇しんに登場した悪役は、なぜ悪に走るのか、その理由が語られる事がありませんでした。なぜなら、彼らは絶対悪であり、それゆえに、その悪の理由を語る必要など無かったのです。
そして、悪役が自らの過去を明かした時、それは絶対悪が崩れる事になり得るのだと、アカマミレが初めて示したと言えます。

彼は、絶対悪としてのキャラクターではなく、「温泉わくわく」のパンフレットの中で、アカマミレ役の家弓家正氏が語ったように、青春時代に受けたコンプレックスを、中年まで持ち続けている哀しい人に過ぎないのです。

しかし、その人物像に普遍性が無かったために、観客の共感を得るには至らなかったのだと考えられます。そして、観客の共感を得た人物が、「オトナ帝国」のケンであったと言えます。

「温泉わくわく」にはノスタルジーなどの「オトナ帝国」と共通する点が多く見られますが、「温泉わくわく」の場合、前述したように、多くの(大人の)観客が共感できる普遍性が無かったのです。

しかし、だからこそ、「温泉わくわく」は「オトナ帝国」の試作とも見ることが出来、「オトナ帝国」を生み出すのに必要な作品であったとも言えるのです。つまり、「温泉わくわく」で一度ノスタルジーというテーマに「失敗」したことで(「失敗は成功のもと」とも言うように)、「オトナ帝国」の成功につながったと言えるわけです。

「温泉わくわく」なくして「オトナ帝国」なし、なのです。





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