ムトウ監督を再評価せよ!2


あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、
なぜ自分の目の中の丸太に気付かないのか。
兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、
どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。
そうすれば、はっきり見えるようになって、
兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。

マタイによる福音書 7章3節-5節 『聖書 新共同訳』


……今日の著述家は、自分が長年にわたって研究してきた
テーマについて論文を書こうとしてペンをとるときには、
そういう問題に一度も関心をもったことのない凡庸な読者が
その論文を読むとすれば、それは論文から何かを学ぼうという目的からではなく、
じつはまったく逆に、自分が持っている平俗な知識と一致しない場合に、
その論文を断罪せんがために読むのだ、ということを銘記すべきである。

オルテガ・イ・ガセット 神吉敬三・訳 『大衆の反逆』



INHALTSVERZEICHNIS


はじめに

ムトウ監督が嫌われる理由

「ケツだけ爆弾」は最高傑作

声なき声の存在

アンチ・ムトウ派のファンへ






はじめに

クレしんファンの間で、ある病が流行している。アンチ・ムトウ症候群という病が。この病に罹ったファンは、ムトウユージ氏が監督を担当したクレしんの作品、特に劇場版作品を駄作と決めつけ、批判もしくは中傷や罵倒といった行動をとるようである。

本文で述べる問題の背景をここで簡潔に述べると、クレしんの映画は本郷みつる、原恵一両監督の作品(特に原監督の「オトナ帝国」と「戦国大合戦」)は高く評価されている一方で、その後に続く水島努、ムトウユージ両監督の評価が低いという事である。特に、ムトウユージ監督の手がけた作品は駄作であるという批判が非常に多い。

アンチ・ムトウ症候群というのは無論一つの例えであるが、現在のクレしんファンにおいて、ムトウ監督を嫌うファンと、筆者を含むそうでないファンに分裂しているというのは事実であると言える。アンチ・ムトウのファンの中には、本郷みつる、原恵一両氏の歴代のクレしんの監督が築いてきたしんちゃんブランドなるものをムトウ監督が汚したという批判があり、そのような批判から想像がつくように、アンチ・ムトウ派のファンはムトウ監督に対して相当な嫌悪感を持っているであろう。

それでは、ムトウ監督の作品は本当に駄作かといえば、筆者は否であると断言する。本文では、前回の「ムトウ監督を再評価せよ!」に引き続き、ムトウ監督の作品が駄作ではない事を論じていくことにするが、ムトウ監督の作品である「3分ポッキリ」、「踊れアミーゴ」、「ケツだけ爆弾」のうち、「3分ポッキリ」と「踊れアミーゴ」に関しては、すでに前回で論じており、本文ではこの2作は主に興行収入の面のみについて論じることとする。本文での劇場版作品における内容の考察は、「ケツだけ爆弾」のみを取り上げている。

また、「ケツだけ爆弾」の考察に関しては、同作品が劇しんにおける最高傑作である事を論じ、単に駄作と決めつけるアンチ・ムトウ派のファンのみならず、傑作ではあるが「オトナ帝国」や「戦国大合戦」には劣るなどといった事を安易に論じるファンに対する批判も行っているので、ご承知願したいと思う。



ムトウ監督が嫌われる理由

双葉社発行のクレしんの単行本16巻に、みさえの父親(原作では名前は明かされていないが、テレビアニメで小山よし治という名前が判明しているため、以下よし治と表記する)が野原家を訪れ、朝食にパンを出されて、よし治は日本人の朝食はごはんとみそ汁に決まっていると反発するシーンが出てくる。結局みさえに咎められ、よし治はしぶしぶパンを食べるが、彼としてはパンを朝食として食べるのは抵抗があったであろう。

唐突になぜこのような話を紹介したかというと、ムトウ監督が多くのファンに嫌われる理由も、実はこのエピソードと本質的に同じだからである。この事については、以下に詳述していくことにする。

そもそも、なぜムトウ監督を嫌うファンが多いのか。この理由の一つに挙げられるのが、いわゆる萌え系、オタク向けのネタやパロディを多く取り入れているという意見がある。しかし、これは原因のほんの一部分にすぎず、本質的な理由だとは言えない。なぜなら、アンチ・ムトウ派のファンはその部分のみならず、ムトウ監督の作品を全否定している場合が多いからである。作品そのものがつまらない、ムトウ監督は駄作しか作らないといった批判からその事がうかがえる。

客観的にムトウ監督の作品が駄作か否かを論じるに当たって確認すべき事に、そもそも特定の作品を面白いと感じるか、つまらないと感じるかは基本的に個人の主観に左右されるというのがある。つまり、ムトウ監督の作品そのものがつまらないのではなく、ムトウ監督の作品に対してつまらない、もしくは本郷、原両監督よりも見劣りがするという主観を持つファンが多いと言うことになる。

ムトウ監督の作風がこれまでの作品と比べてどこか違うのか。一つには、ストーリーがおろそかになっているというものがあろうが、これは既に「ヤキニクロード」にも起こっていた事であり(そこが同作品の評価を低くしている要因でもあるのだが)、ストーリーがおろそかになっている事が、必ずしも駄作を決めつける根拠になるわけでもない。また、「ケツだけ爆弾」はストーリーがおろそかになっているとも言えない。

その他の理由については、明確な根拠に基づいたものが少ない。筆者がネット上にあふれる同氏に対する批判を読んだものでも、つまらない、完成度が低い、下品といった自分たちの主観的な感想を垂れ流しているだけである。「ケツだけ爆弾」のストーリー性がおろそかになっているという批判もあるが、それらの客観的な根拠を何も提示していない。つまり、ムトウ監督の作品が駄作であるという確固たる根拠はどこにも存在せず、主観的にムトウ監督の感性に合わないファンが多いに過ぎない。

それでは、なぜムトウ監督の作品を否定的に受け取る主観を持つのか。筆者は一つの考えとして、そのようなファンは本郷、原両監督に馴染みすぎている事が挙げられる。本郷監督は劇しんを初めて担当し、クレしんをスクリーンでどのように表現するのか、それを確立した人物である。原監督も第1作から演出として参加し、その確立に大きく関わり、監督に就任してからは世間一般におけるクレヨンしんちゃんの評価を大きく高めることに貢献した人物だと言える。

一方、ムトウ監督がクレしんの関わり始めたのは1998年頃で、劇しんの方向性が既に定まって久しい時である。そのため、本郷、原両監督とはクレしんに対する受け止め方、作る際に作品に注入する感性が異なっている事が考えられる。このような感性というのは、いわば監督の嗜好や考えの違いのみならず、潜在意識から発せられると思われるアイディアにおける微妙な違いなどから相違が生じるものであると思われる。

このような監督の感性が作品に反映され、それが観客の感性と合う、もしくは近いものであれば、その観客はその作品を面白い、傑作だと感じるが、感性が合わなければ、つまらない、駄作と感じるわけである(なお、水島監督がクレしんに関わりだしたのは1994年頃で、本郷・原監督よりもやや遅れている。これが、ムトウ監督ほどではないにしろ、氏との感性が合わないファンも少なくない一つの根拠であると推測できる)。

感性が合わないという例を挙げると、「ケツだけ爆弾」にはひなげし歌劇団をはじめ登場するキャラクターが歌や踊りを披露するシーンが多く出てくる。ムトウ監督はこれらのシーンについて、同作品の見どころの一つであると、「クレヨンしんちゃん 映画15周年記念増刊号(漫画アクション5月11日号)」(双葉社)の中のインタビューで語っている。

しかし、これらの歌のシーンは余計だとして批判するアンチ・ムトウ派のファンもいる。一方で、筆者のように素直に楽しむファンもいるであろう。つまり、ムトウ監督が見どころの一つとして紹介したシーンも、感性が合わなければ単につまらないシーンとしか映らないわけである。

冒頭で紹介した、よし治がパンの朝食に反発するのは、彼がごはんとみそ汁という朝食に馴染みすぎているのが原因である事は容易に想像がつく。彼がこの時反発を示したのは、客観的にパンがご飯よりも栄養価の面で劣っているなどといった理由ではなく、彼が長い間、日本食に親しんで、パンに馴染めないからに過ぎない。

ムトウ監督が嫌われる理由はまさにこれである。さきほどの感性をこの朝食のメニューに置き換えてみると、アンチ・ムトウ派のファンはこれまで本郷、原両監督の作ってきた「和食」に親しんできたために、ムトウ監督の作る「洋食」に馴染めなくなってしまったからであると考えられる。

そのため、どれだけ極上の「洋食」を提供したところで、そもそも「和食」に馴染みすぎてきたために、どうしても洋食が受け入れられず、そのために「洋食」はまずい(つまらない)、料理(作品)として失格(駄作)などと批判するのである。

蛇足だが、これは逆もまた真なりで、欧米人はパンもしくはシリアルといった朝食が主であり、もし彼らに朝食としてご飯とにみそ汁、ましてや納豆を出したら、反発もしくは抵抗するであろう。少なくとも、納豆がどれだけ健康的な食品であったとしても、それを全く抵抗なく受け入れられる欧米人を探すのは容易なことではない。アンチ・ムトウ派のファンの批判は、たとえ栄養価が高くても納豆が自分の嗜好に合わないため、納豆を栄養価の低いジャンクフードと決めつけるようなものである。

どれだけ名作と呼ぶに堪えうる作品を作ったところで、そもそも感性の異なるムトウ監督の作品である限り、本郷、原両監督に馴染んできたファンにしてみれば、ムトウ監督の作品は駄作と感じ取る。もしくは駄作とまでいかなくても本郷、原両監督の作品と比べて見劣りがしてしまうわけである。そしてそれは、クレしん映画の最高傑作と呼ぶに値する「ケツだけ爆弾」さえも同様である。



「ケツだけ爆弾」は最高傑作

ファンの間において、「ケツだけ爆弾」の評価は大きく二つに分かれている。即ち同作品もまた、これまでのムトウ監督の作品と同様、駄作とみなすファンと、傑作とみなすファンである。ただし、傑作とみなすファンもまた、いわば最高傑作とまで評しているケースはあまり見られない。確かに傑作ではあろうが、「オトナ帝国」や「戦国大合戦」ほどではないという見解が大部分であろう。

しかし、筆者は「ケツだけ爆弾」こそが劇しんにおける最高傑作であり、同作品は「オトナ帝国」や「戦国大合戦」をも超越しうる作品であると考えている。その根拠は、単に泣けるシーンがあるからなどといった表面的かつ単純なものではない。「ケツだけ爆弾」にはこれまでの劇場版作品における、主人公の行動原理を根底から覆す要素を有しているからである。

従来の劇しんのストーリー展開の在り方は、善と悪の対決が基本であった。詳しく言うなら、その善と悪のぶつかり合いに主人公のしんのすけや野原一家、かすかべ防衛隊のメンバーが巻き込まれ、彼らは善の側に付くキャラクターと共に悪を倒すというストーリーが定着していた。善のキャラクターは、アクション仮面、ルル、吹雪丸、トッペマ・マペットなどがそれに当たる。一方、悪のキャラクターはハイグレ魔王、アナコンダ伯爵、ヒエール・ジョコマン、マカオとジョマなどである。

しかし、しんのすけら日常に生きるキャラクターは、基本的にその善の側をサポートするという役割に過ぎず、クライマックスなどで悪と戦って倒すといった重要な場面においては、しんのすけは傍観者となる傾向があった。

これを解決する方法として、しんのすけらそのものが善の側に立つ人物であり、味方には強いキャラクターを減らすないしは登場させないといった手法がとられるようになる。そして、しんのすけらを存分に活躍させられるようになるのだが、この手法は「ジャングル」以降にしばしばとられるようになる(このような作品のあり方の詳細は「比較作品論」を参照されたい)。

しかし、このようなしんのすけらが傍観者に回ってしまいがちな作品と、主人公として十分な活躍をする作品には共通する点がある。それは、しんのすけらが最初から善の側についている、言い換えれば善の側に立つことが前提となってストーリーが進められているという事である。その理由として、筆者は映画編の考察で以下のように書いている。

『野原一家が善玉と悪玉の二大勢力の中で、これまで善玉の方に属していたのは、非日常から日常の生活に戻るという彼らの目的が、たまたま各作品における善玉と同じベクトルであっただけに過ぎないのであり、野原一家そのものは本来善でもなければ悪でもないのである。』

野原一家やかすかべ防衛隊は善の側に属するキャラクターのように世界の平和を守るために戦うわけではなく、あくまでも自分たちの日常の生活を守るために闘ってきたわけである。再び映画編の考察から、彼らが世界平和を願っているわけではない根拠を以下に引用する。

『例えば「温泉わくわく」で、YUZAMEによって、不健康ランドでの拷問の後、山奥へうち捨てられた後、YUZAMEのロボットが春日部に向かっているにもかかわらず、野原一家はその春日部にある自宅へ戻る決意をする。これは、自分達の本来すべき事は、世界平和ではなく、自分達の日常を取り戻す事を見出したからに他ならない。

また、「オトナ帝国」では、ひろしの靴の匂いで、ひろしとみさえの洗脳が解けた後、ひろしは「俺たちは抜けさせてもらうぜ」と、元の日常の生活に戻る事をケンに告げているが、この台詞は裏を返すと、自分達の家族以外はどうでも(洗脳された状態でも)よいということになる。

そして、「雲黒斎」に至っては、ひろしが「ウチの一家にとっては世界平和なんてどうでもいいけど」とはっきり発言しているのである。』

もし、野原一家の日常の生活を守るという行為が世界を滅ぼすことにつながる、客観的に悪とみなされるようになっても、彼らはそれでも日常の生活を守るために善と戦うことはありうるのか。従来の作品はこの根本的な問いに対する回答を出してこなかった。

これまでの監督や製作スタッフらは、先に引用したような野原一家の世界平和に対する無関心を承知しつつも、野原一家を善と戦わせるという発想までつながらなかったためだと思われる。野原一家イコール善が半ば常識となっていたからであろう。この常識を覆した、つまり野原一家が今まで悪と闘ってきた本当の理由を問い、彼らを初めて善から外すことで、彼らは本来善でもなければ悪でもない存在であるという事を実証したのが「ケツだけ爆弾」なのである。

この作品は、シロのお尻に地球を破壊するほどの爆弾がついてしまったことで、シロを宇宙へ飛ばす、つまりシロの命と引き換えに世界の平和を救おうとするUNTIと、爆弾を手に入れて世界征服を企むひなげし歌劇団との狭間に立たされる野原一家を描いている。UNTIという善とひなげし歌劇団という悪が登場することで、善でも悪でもない野原一家の真の姿が浮き彫りになるわけである。

確かに、ひろしとみさえは大人としての常識があるために、当初は善であるUNTIの側について、しんのすけもそちらの側に来るよう、つまりシロを引き渡すよう説得するが、しんのすけはシロを引き渡すことを拒否、言い換えれば善の側に立つことを拒むのである。

そして、後にひろしとみさえもしんのすけの側に立ち、シロを救おうとする。彼らの願いはただ一つ、シロの命を救う事である。なぜなら、シロも家族の一員であり、家族の日常を守るのが彼らの本来なすべき事であることを自覚したためである。ここで、爆弾が外れる望みが薄くても、つまり地球を破壊する危険があったとしても、日常の生活を決して放棄しないという意志が明確となる。

もし、シロをそのまま宇宙へ飛ばしてしまえば、確かにそれは善という行為になるが、ひろしが言ったように「オレたち家族までバラバラになってしまう」という結果につながるため、そのような善よりもただ家族を守るという選択をするのが野原一家である。

しかし、爆弾がシロから外れたのも、ロケットに閉じ込められてしまったシロとしんのすけが助かったのも、そのような家族の日常を守るという意志から発せられる家族愛によるものではない。これは、例えば「オトナ帝国」のクライマックスで見せていた、未来を生きようとする野原一家が団結した姿を夕日町の住人に見せつけ、ケンとチャコの野望を食い止めたような姿とは対称的である。

「ケツだけ爆弾」で、ひろしとみさえはUNTIの長官、時雨院時常によるロケット発射を止めることが出来ないでおり、しんのすけとシロが助かったのは、彼らの悪運の強さとパラシュートを作ったお駒夫人にちゃっかりしがみつくという厚かましさによる。

ここから、「オトナ帝国」における野原一家は理想の家族として、「ケツだけ爆弾」では理想ではない家族として描かれている。筆者は、後者における野原一家こそが真の彼らの姿であると考えている。なぜなら、野原一家は決して理想の家族ではないからである。それについて、映画編の考察で以下のように書いている。

『沖縄旅行で、しんのすけばかりか、みさえまでもがひろしの勤続15年の勤続を反則と言い間違えるシーンがあり、みさえはその前に、ひろしのアプローチに関わらず他の男に見とれている。ひろしもまた、劇中ではウンツィの女性隊員に鼻の下を伸ばし、みさえに殴られているが、このようにひろしが他の女性に関心を示し、みさえに制裁を受けるというのは、原作やテレビアニメでは昔からの定番である。

沖縄からの帰りの(おそらく行きも)飛行機では、シロをぬいぐるみとして機内に入れている。いみじくも時雨院が指摘したように、規則を平気で破っているのである。また、時雨院が「近頃の親御さんは子供一人の説得も出来ないのですか」と言っているように、家族全員が常に一致団結できるわけではない。橋の下でのシロの回想にあったように、しんのすけはシロにソーセージを渡さず自分だけで食べてしまっている。』

「オトナ帝国」で描かれていたような理想の家族としての野原一家は、普段の彼らを幾分美化している。筆者はそのような描き方が間違っていると言うつもりはないし、彼らをどのように描かなければならないと言った規則も存在するとも思わない。そのような描き方が「オトナ帝国」を名作たらしめている根拠の一つとして機能しているとも考えている。

しかし、普段の野原一家から飛躍させ、家族の模範のような存在として描いているという事から、客観的に見て野原一家の真の姿を描いているとは言い難い。真の野原一家とは理想の家族などではなく、どこにでもいる普通の家族であり、先に引用したような欠陥を数多く有している不器用な家族なのである。

それは、普段の原作やテレビアニメを見てもお分かりいただける事である。しかし、たとえ不器用であっても、その不器用な日常の生活こそが幸福なのであり、それはたとえいかなる状況下におかれても守り抜くに値するものである。この事について、以下に映画編の考察から引用する。

『たとえ理想でなくても、野原一家は幸福で明るい日常の生活を送っているのである。そのような、幸福で明るい生活を象徴するのがGood day(英語の挨拶の一つ)である。

つまり、エンディングのラストに書かれたGood dayとは、不器用(グデグデ)であるけれど、幸福(Good day)でもあるという日常の生活が集約されているのであり、野原一家はこのために、今まで映画の世界で戦ってきたのである。決して世界平和という崇高なものなどではなく、あくまで日常の生活を守るためだけなのである。』

「ケツだけ爆弾」が名作かつ最高傑作とさえ言える最大の根拠は、野原一家の真の姿を明確にし、彼らがなぜ悪と闘ってきたのかという問いに真正面から向き合った事にある。本作品の公開時、15周年記念作品と銘打たれていたが、まさに15周年という一つの区切りを示す相応しい作品であったと言わねばならない。

ここで、アンチ・ムトウ派のファンに問いたい。一体何を根拠に「ケツだけ爆弾」を駄作と決めつめるのか(あるいは、同作品を駄作とまではいかなくても、「オトナ帝国」や「戦国大合戦」よりは劣ると決めつめるファンも、一体何を根拠にそのように決めつけるのか、今一度考えていただきたい)。

それは、単に自分たちの感性に合わないために、主観的に面白いと感じられないというそれだけの理由に過ぎない。「ケツ」などと下品な描写が沢山あるといった妄言を吐くファンもいるようだが、テレビアニメの第1作目「おつかいに行くゾ」(1992年4月13日放送)を観てみると良い。しんのすけの初登場シーンでは、彼が下半身をむき出しにして「ぞうさん」踊りをしている。

テレビアニメでは他にもケツだけ星人やらケツ顔マンといった「下品な」描写がいくらでも出てくる。これは劇場版も同様で、「暗黒タマタマ」では「お楽しみ袋つき ケツだけ星人」、「ちんこぷたー」といった「見るに堪えない」とてつもなく下品なシーンが登場する。「オトナ帝国」にも、ひまわりがしんのすけのズボンを脱がし、しんのすけの下半身がむき出しになるシーンがある。

つまり、クレしんは下ネタがつきものの作品であり、「ケツだけ爆弾」でも下品なシーンが登場していても何ら不思議な事ではない。しかし、「ケツだけ爆弾」では性器の描写は存在しない。そういう意味では、他の作品に比べてもそれほど下品な作品ではないとも言える。「オトナ帝国」の性器を丸出しにするシーンは何も批判せず、「ケツだけ爆弾」の「ケツ」の踊りは下品だと批判する。あばたもえくぼ、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというべきか、作品によって贔屓をしたり偏見を込めたりする。これが、アンチ・ムトウ派のファンの本質なのであろう。



声なき声の存在

「3分ポッキリ」、「踊れアミーゴ」、「ケツだけ爆弾」の3作を批判するアンチ・ムトウ派のファンは、ムトウ監督は3作連続駄作を作り続けたと決めつける。筆者に言わせれば、本郷、原両監督に馴染み過ぎ、両氏の劇しんこそが真の劇しんであると勝手に決めつけているために、ムトウ監督の作風が感覚的に合わず、それで駄作だと錯覚しているに過ぎない。

そもそも、ムトウ監督の作品が駄作であるならば、興行収入はなぜ軒並み上がり続けたのか。アンチ・ムトウ派はその事については何も言えないし、そもそも自分たちにとっては都合の悪い事実であるから、見て見ぬふりをしているのであろう。

ムトウ監督の最初の劇しん「3分ポッキリ」の興行収入は13億円で、これは水島努監督の前作の「カスカベボーイス」の12億8千万円を若干上げただけで、これだけではムトウ監督が観客に受け入れられたか否かは分からない。その後、「踊れアミーゴ」では13億8千万円と、さらに上昇している。 「ムトウ監督を再評価せよ!」で述べた通り、第2作目の興行収入が1作目を初めて超えた事例であり、そこからこの事実がいかに快挙であった事か、お分かりいただけると思う。

アンチ・ムトウ派のファンに問う。なぜ、駄作しか作らないムトウ監督が、2作目の興行収入が1作目を超えるという快挙を成し遂げられたのか。そして、3作目の「ケツだけ爆弾」では15億5千万円とさらに興行収入上がっているが、この事実もまた単に上がったとだけで済ませられるものではない。ムトウ監督の各作品の、前作との興行収入と比較すると以下のようになる。


作品名 興行収入 前回比
「3分ポッキリ」 13億円 +2千万円
「踊れアミーゴ」 13.8億円 +8千万円
「ケツだけ爆弾」 15億5千万円 +1億7千万円


ここから、伸び率(前回比)は年々倍増している事が分かる。ムトウ監督の作品が本当に駄作であれば、逆に年を追うごとに減少するのが自然なはずである。「比較作品論」で詳しく述べているが、作品の興行収入は前作の影響が絡んでいる事も考慮する必要があるからである。

「ケツだけ爆弾」の興行収入にはもう一つ、非常に重要な意味がある。「ケツだけ爆弾」の興行収入は、「オトナ帝国」をも抜かし、歴代3位である。しかし、1位は第1作目の「ハイグレ魔王」(22億円)で、2位は第2作目の「ブリブリ王国」(20億円)であり、両作品は公開された当時は、テレビアニメの平均視聴率が20%以上という、クレしんがブームになっていた時期である。つまり、ブームに便乗して多くの観客がつめかけたという事情があったからこそ、この2作の興行収入は突出しているのである。

つまり、ブームが去ってからだと、「ケツだけ爆弾」は興行収入が1位の作品なのである。なぜ、駄作である「ケツだけ爆弾」がこれだけヒットすることができたのか。さらに言うなら、なぜ、駄作しか作らないムトウ監督の作品は興行収入が年々上昇しているのか。

その理由は簡単で、単にそれだけムトウ監督を受け入れるファンが本郷、原、水島各監督以上に多く存在するからである。そのファンとは、即ち子供たちである。この場合の子供とは、物心がついた頃の幼児から小学校の中学年から高学年くらいまで、思春期を迎えるまでの年代を指す。彼らの世代では、本郷、原両監督時代はまだ生まれていない、もしくは物心がついていないため、リアルタイムで両監督の作品を楽しんできたわけではない

例えば、「ケツだけ爆弾」公開時に8歳だった子供は1999年生まれであり、そこから2002年か2003年頃、原監督から水島監督に交代する頃に物心がついていることになる。つまり、特定の監督に馴染みすぎたというわけではないため、ムトウ監督に対する偏見が元々存在しない事が考えられる。特定の監督の感性に合わせることなく、彼らこそがムトウ監督を正当に評価し、それは興行収入に表れていると言える。

クレしんの原作は青年誌に連載されていたこともあり、元々大人向けの作品であったが、テレビアニメとその延長線上である劇場版は子供向けとして製作されている。つまり、劇しんにおける本来のファンである子供たちに受け入れられるか否かで劇しんの興行収入は大きく左右される。

そして、ムトウ監督は最も彼らの人気を博していると言える。ムトウ監督に対する批判が多いなどといっても、それはあくまでも本郷、原両監督に馴染みすぎた大人、もしくは中高生以上の世代のファンの間のものに過ぎない。彼らの世代で劇しんを劇場まで行って観ようというファンは(残念な事に?)それほどいないであろう。

筆者の経験から言っても、劇しんの観客の大部分は小さい子供を連れた親子連れや、子供たちである。そもそも小さい子供がいなければヒットをさせることが出来ないのが劇しんである。劇しんをレイトショーで公開する劇場も非常に少ないのもそのためである。いまさら言うまでもないだろうが、未成年者は保護者同伴でもレイトショーを観るのが各自治体の条例により禁止されているからである。

比較作品論でも書いたように、「オトナ帝国」のヒットも大人によるものではなく、あくまでも子供によるものである。それは、同作品は子供を引き付けるための要素を有しているからに他ならない。

「ムトウ監督を再評価せよ!」の「監督の壁と声なき声」でも述べたが、劇しんのメインの観客である子供たちが、ネット上に自分の意見を書き込んだり、また社会に向けて自分の意見を発するということは、皆無ではないにしろあまり無いであろう。そのため、ネット上に存在するムトウ監督の批判など、ごく一部の大人の(もしくは中高生以上の)ファンによる、偏見に満ちた末梢的な意見に過ぎない。あえて言ってしまえば、本来なら相手にする価値など無いのである。

本当のファンの声は、いわば声なき声なのであり、ネット上に書かれた表面的な批判などではない。この、声なき声の持ち主らの心を掴み続けるのは、大人のファンよりも大変な事である。なぜなら、作品がつまらなくても、大人は義理で見てくれることがしばしばあるからである。

ムトウ監督を3作とも駄作と批判するファンは、逆に言えば「駄作」であるにもかかわらず。3作とも観ているわけである。しかし、子供は作品がつまらなければすぐに見捨ててしまう。彼らは大人よりも理性が発達していないからである。

「3分ポッキリ」などという「史上最低の駄作」を観れば、クレしんを見限るのではないだろうか。そこから、次の「踊れアミーゴ」の興行収入は確実に落ちているはずである。なぜ、アンチ・ムトウ派のファンが「史上最低の駄作」と言ってはばからない「3分ポッキリ」が前作の興行収入を越え、次回作をさらにヒットさせられたのか。それは、同作品は子供を十分に引き付ける要素が存在したからである。

興行収入が作品の良し悪しを決める根拠にならないなどという批判もあるかもしれないが、そもそも興行収入が一作品でも低いと、劇しんは打ち切りになってしまうのである。興行収入は作品が名作か駄作か以前の重要な要素である。たとえどんな名作であっても、興行収入が低いために打ち切られてしまうという事は、今後も名作が生まれる可能性を摘み取ってしまう事である。このような作品づくりが間違っている事は言うまでもない。間違っていないというファンは、劇しんが本来子供向けであるとい事を完全に忘れている。これこそ、大人のエゴというべきものである。

ムトウ監督がいかにして本来の観客である子供たちを惹きつける作品作りをすることでクレしんの興行収入を安泰なものにしたか、そして自身の作品のクオリティをも高めてきたのか、その軌跡をアンチ・ムトウ派のファンは全く知らず、知ろうともしないようである。そのような監督の功績を全く無視して、単に自分本位の感性から表面的に作品をつまらないと決めつけ、ムトウ監督辞めろとまで暴言を吐いてきたわけである。

現在の大人、もしくは中高生以上のファンの間では、ムトウ監督の批判が多いが、現在の声なき声の存在の主たちが、いずれムトウ監督を再評価へと導くであろうと筆者は信じている。なぜなら、彼らにはムトウ監督に対する偏見が存在しないのだから。

逆に、彼らがムトウ監督に馴染みすぎるという現象も起こりうるのではないかとも考えられるが、その可能性はあまり高くないと思っている。なぜなら、本郷、原、水島各監督の作品もまた、ムトウ監督の作品と共にビデオやDVDとなって、販売もしくは貸し出されているからである。つまり、今の子供たちは、筆者を含むかつての子供たちのように、本郷、原両監督しか観ていないという状況ではないからである。水島、ムトウ両監督を含めた4人の監督の作品を鑑賞する機会が等しく存在している。ここから、特定の監督に馴染みすぎて、偏狭な見方をすることはないだろうと期待できるわけである。

今年(2008年)公開される劇しんの第16作目「金矛の勇者」では、本郷監督が復帰し、ムトウ監督は降板となったようである。これが、ムトウ監督の意向によるものか、上層部による意向なのかは分からないが、いずれにせよムトウ監督による批判に「配慮」した結果であれば、今回の本郷監督の復帰は全面的に諸手を上げて歓迎できるものではない。ちなみに、筆者は歴代の監督の中でも本郷監督が最も好きであり、氏の「ヘンダーランド」が最も気に入っている作品である。

そのため、本来なら本郷監督の復帰は大いに喜ぶところであるが、これがムトウ監督に対する批判への「配慮」の結果、言い換えればアンチ・ムトウ派の妄言に惑わされたのであれば、本郷監督の復帰は正しかったと言い難い。

なぜなら、前述したように、彼らの批判はごく一部のものにすぎないからである。もちろん、それで本郷監督が駄目だと言うつもりはないし、それだけで「金矛の勇者」を駄作扱いするつもりは毛頭ない。「金矛の勇者」が駄作か否かは、あくまで作品の内容、それも表面的なものだけでなく内面の本質的な部分も含めて判断されるべき事である。



アンチ・ムトウ派のファンへ

アンチ・ムトウ派のファンに告ぐ。貴方たちに、(「オトナ帝国」やら「戦国大合戦」やらを持ち出して)クレしんの素晴らしさを語る資格は無い。

貴方たちは、ムトウ監督の作品が何を伝えようとしているのかを見ようとせず、本郷、原両監督の感性に沿った作品こそが真の劇しんであるなどというありもしない法則をでっち上げ、自分の感性のみを基準に、表面的に自分にとって楽しめなければ駄作などと決めつけ、果てはムトウ監督に辞めろとまで吠えるのだから。

貴方たちは、「お尻や性器を出して下品」、「親を呼び捨てにする」、「笑い方がいやらしい」といった表面的な側面のみで、クレしんを子供に見せたくないと決めつける、クレしんそのものを嫌う人々と全く同じ人種である。

クレしんを下品だからと駄作と決めつる人々と同じ穴の狢であるアンチ・ムトウ派のファンに、クレしんの何が分かるというのか。所詮、泣けるから、家族愛を訴えているからなどといった表面的な事しか分かっていない。表面的な事しか分かっていないから、自分の感性と合わない作品と出会えば、たとえ泣けるシーンが出てきても駄作と決めつけ、そうでなければなおさらそのように決めつけるのである。

本文のタイトルに反するが、筆者は貴方たちにムトウ監督の作品を駄作扱いするなと言うつもりはもはや無い。駄作だと思いたければ、勝手にそう思っていれば良い。せいぜい、ネット上で妄言、暴言の類を垂れ流し、ムトウ監督の作品のDVDのディスクを割り、パンフレットを破り捨て、ムトウ監督の作品など存在しない、黒歴史なのだと己の「精神的勝利法」に基づいた妄想の劇しん史を頭の中で作り上げ、そこに浸っていれば良い。

現実では、ムトウ監督はこれまでの監督がなしえなかった興行収入を軒並み上昇させるという偉業を成し遂げ、「ケツだけ爆弾」は歴代3位、ブームの頃の作品を除けば1位という興行収入を打ち立てている。そして、同作品は劇しんの15周年記念作品であり、そう呼ぶに相応しいほどの最高傑作であると言えるのである。その現実から目を背けたければ、背き続けていれば良い。

アンチ・ムトウ派のファンの中には、ムトウ監督のために劇しんを観なくなったという者もいるようだが、大いに結構。真の担い手は、貴方たちなどではなく、子供たちなのだから。そして、今年(2008年)の映画「金矛の勇者」での本郷監督の復帰とムトウ監督の降板をせいぜい喜ぶが良い。

その代わり、貴方たちはクレしんの素晴らしさを語る資格など微塵も持ち合わせていない存在である事を、少しでも自覚してみたらどうであろうか。そうすれば、己の誤った考えも少しは改められるのではないだろうか。



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