ムトウ監督を再評価せよ!


父よ、彼らをお赦しください。
自分が何をしているのか知らないのです。

ルカによる福音書 23章34節 『聖書 新共同訳』



INHALTSVERZEICHNIS


まえがき

「伝説を呼ぶ ブリブリ3分ポッキリ大進撃」

「伝説を呼ぶ 踊れ!アミーゴ!」

監督の壁と声なき声

結論

あとがき






まえがき

2007年以降,テレビアニメ版のクレヨンしんちゃんは,昨年に続きエンディングが廃止されており,またオープニングも改竄され始め,筆者を含む多くのファンからは不評の声が上がっている。クレしんがこのような方向に進んでいる背景には,果たして現在の同作品の監督ムトウユージ氏の意向が含まれているか否かは,単なる一ファンに過ぎない筆者には知りえない事である。
単に,テレビ朝日の方針で行われている事かもしれないが,もしムトウ監督の意向である事が判明すれば,筆者はムトウ監督をその点で批判することになるであろう。

現在,テレビアニメの状況もあってか,ムトウ監督は従来のファンからあまり高い評価を受けていないようである。そして,それは劇場版についても同様で,これまでのムトウユージ氏が監督を担当した2作品「伝説を呼ぶ ブリブリ3分ポッキリ大進撃」と「伝説を呼ぶ 踊れ!アミーゴ!」に対する評価も,一般的に相当低いと言われている。

特に,「3分ポッキリ」は「史上最低の駄作」という声すら存在するようである。それでは,「3分ポッキリ」と「踊れアミーゴ」は,本当にそこまで批判されるほどの駄作なのか,そのような批判は果たして正当なものなのか,本ページでは,このムトウ監督の2作品を再検証し,本当にそのような批判を受けざるを得ないほど質の低い作品なのかを,考察していく事にする。なお,作品の批判は,主にアマゾンのカスタマーレビューを参考にした。



「伝説を呼ぶ ブリブリ3分ポッキリ大進撃」

2005年に第13作目として公開された「3分ポッキリ」は,主に怪獣との戦いが主眼に置かれている。

これは,怪獣映画の設定をクレしんに移植しようとした事で,「温泉わくわく」に似た要素と言えるが,本作品が受ける批判に一つに,ただひたすら怪獣との戦いを繰り返し,ストーリーをおろそかにしている,というものがある。

確かに,本作品のストーリーを簡単に説明してしまえば,ミライマンによって力を得た野原一家が怪獣と戦うと言えば事足りる。本作品がストーリーをあまり重視していないのは事実であろう。

しかし,それは本作品に始まった事ではなく,例えば「ヤキニクロード」にも同様の事が言える。「ヤキニクロード」はひたすらギャグを優先し過ぎすぎてしまったがために,黒幕であるスイートボーイズのボスが,結局何がしたいのかがはっきりとは分かっていない。「3分ポッキリ」の怪獣退治に,「ヤキニクロード」が該当するのは野原一家が熱海へ向かうまでの過程である。

春日部から熱海へ向かい,ボスと対決するという展開は,最初は弱い怪獣から段々と強い怪獣が出現する未来の世界に向かい,ゴロドロやニセしんのすけマンと対決するという展開と同類であると言える。ここでの両展開の最大の違いは,前者が物理的な距離が短縮されていく過程なのに対し,後者は時間的な距離の短縮という点である。

そして,「3分ポッキリ」がただひたすら怪獣と戦うのを繰り返すだけというのなら,「ヤキニクロード」は熱海まで向かう野原一家とそれを妨害するスイートボーイズとの対決を繰り返しているわけである。ここで,「ヤキニクロード」が批判されず「3分ポッキリ」が批判される最大の点は,前述した物理的距離と時間的距離の違いにある。

つまり,我々が生活しているこの3次元の世の中では,物理的な移動はしばしば認識しているが,時間的な移動,つまり4次元の世界観を認識する事は少ない。この認識の違いから,「3分ポッキリ」があたかもストーリーをおろそかにしすぎているという誤解が生じていると思われる。

また,「3分ポッキリ」の非日常の描き方は,これまでの劇しんには見られなかった,若干特殊な手法が存在する。それは,本作品における非日常は、野原一家全員が進んで受け入れており,観客にとってもそれまでの非日常のシーンには緊迫感が感じられないものである。

しかし、怪獣が次第に強くなってくると、ひろしやみさえは非日常を受け入れるのを拒むようになり、「従来通り」の非日常へと変化していく。つまり、本作品における非日常とは,今までの劇しんには無かった「偽」としての非日常と、これまで通りのあり方を踏襲している「真」としての非日常の2種類が存在しているのである。

そして,「偽」としての非日常で描かれる,登場人物が進んでその非日常を受け入れるという描写は,実は「オトナ帝国」にも見られるものである。「オトナ帝国」のひろしやみさえ,そして日本中の大人達は自分達が大人である事を放棄し,自らのエゴに忠実な子供に戻る事を選択してしまうのであるが,「3分ポッキリ」のひろしとみさえも,まさに自らの欲望を優先させ,子供へと戻ってしまうのである。

「オトナ帝国」では,冒頭でいきなり大人達が子供に戻っていると思われるが,「3分ポッキリ」ではひろしとみさえが大人から子供へと戻っていくプロセスが描写されている。そのプロセスというのが,ミライマンの説明から始まる,「偽」としての非日常なのである。

つまり,「オトナ帝国」では描ききれなかった展開が本作品では描かれている事からも,その作品的価値は大きいと言えるのである。主人公のしんのすけを差し置いて,(しばしば批判の的となる)みさえとひろしの変身シーンがやたら多いのも,その伏線であると解釈する事が可能である。

そして,子供に戻ってしまったために,ひろしは会社を休み,みさえは家事をやらなくなる。これは,「オトナ帝国」でも見られたシーンである。このように,「3分ポッキリ」は「オトナ帝国」で問われていた「大人という存在とは?」という要素をふんだんに取り入れていることが分かる。

さて,「真」としての非日常は,ひろしやみさえにも適わない怪獣が出現し始めたあたりである。この二人は子供に戻っているから,ただ怯えるだけで何もしようとしない。そして,主人公のしんのすけは自らの倫理の規範に従い,ゴロドロと戦う決意をするが,その決意をひろしとみさえに語るシーンは,「オトナ帝国」で二人が靴の匂いを嗅いで,大人としての記憶を取り戻すシーンに該当する。

ただし,両者とも子供から大人への復帰という点では共通しているが,「オトナ帝国」ではこれまでの洗脳が解けたのに対し,「3分ポッキリ」では二人が未来を生きる事を望むしんのすけに諭されたという点である(もちろん,ひろしが子供の頃から現在に至るまでを回想する「オトナ帝国」のシーンも,未来を生きる尊さを「諭された」と言えなくもないが,それは解釈によって異なってくる問題でもある)。

自分の息子に直接諭されたという事から,主人公のしんのすけの存在感がここで大いに発揮されているのである。それはまるで,今までの「奪われてきた」出番の分を,ここで挽回するかのように。

大人に戻ったひろしとみさえは,しんのすけらと共に日常の姿で巨大化するが,みさえは「この格好が一番あたしたちらしいわ」と言っている。これは,それまで数多くの変身と戦い、そして葛藤を経て、ヒーローではなく、子供達に未来を生かしてあげようとする大人だという認識に至り、その自分に最もふさわしい姿を見出した事を示す台詞である。

「3分ポッキリ」は,黒幕の事がはっきりしないという「ヤキニクロード」に似た作品的弱点を有しているのは事実であり,また悪の親玉ではないゴロドロが最強であることから,作品の構造上に欠陥があるのは事実であろう。

最後にニセしんのすけマンがみさえのグリグリ攻撃を受けて、「最強の上にはまだ最強がいたゾー!」というのは、製作スタッフが本作品をストーリー上の論理よりもギャグを優先する事を明らかにした象徴的な台詞だと言える。ただし,この台詞も解釈の仕様では別の見方をする事が可能である。

悪の親玉であるニセしんのすけマンは,(巨大化している以外では)何の特殊能力も有していないみさえのグリグリ攻撃を受けて敗れている。また,その前の最強と思われるゴロドロに対する勝利を決定づけたのは,しんのすけの単なるオナラ(の匂い)である。

つまり,ミライマンによって与えられた特殊能力というわけではないのである。「3分ポッキリ」は,そのタイトルやストーリー展開,しんのすけのコスチュームからウルトラマン(ウルトラシリーズ)のパロディである事は明白であるが,実はこれらのシーンは,そのパロディをオマージュへ昇華させているとも言えるのである。

「ウルトラマン」の最終回で,ウルトラマンを倒したゼットンは,最後は科学特捜隊の新兵器ペンシル爆弾によって倒され,「ウルトラマンタロウ」の最終回でバルキー星人を倒したのは人間の東光太郎,そして「ウルトラマン80」の最終回で最強怪獣マーゴトンを倒したのは(防衛軍の)UGMである。つまり,最後は人間の力が怪獣を倒したという事から,人間も常に努力を重ねることで不可能を可能に,つまりウルトラマンすらを越えることも出来るだというメッセージが,ウルトラシリーズには込められており,「3分ポッキリ」でも実はそれがさりげなく伝えていると言えるのである。

もちろん,元ネタのウルトラシリーズに関する知識が無ければ分からない事だが,人間の強さ,努力の価値のメッセージを伝えている事自体を見抜くのは可能である。そして,前述したように「オトナ帝国」で描かれていた,「大人という存在とは?」という要素も本作品では見る事が出来るのである。

しかし,本作品を批判する方々は,そういった事が分からず(分からないフリをしている?),「オトナ帝国」(もしくは「戦国大合戦」)はあんなに素晴らしかったのに,ムトウ監督のせいで「3分ポッキリ」という最低の駄作が作られてしまったなどという妄言を吐くのだから,何をかいわんやである。

確かに,「3分ポッキリ」はストーリー構成上やや弱いところがあるのは事実であり,劇しんの中で特に優れた作品とは言い難いかもしれない。しかし,それは本作品に限った話でない。また,「3分ポッキリ」を観ていると腹が立ってくる,ムカつくなどという感想も少なくないが,それは単に個人の嗜好の問題であり(前述したような作品的価値が全く理解できないのであろう),こういった事が本作品を「史上最低の駄作」などと決め付ける客観的根拠にはなり得ないのである。



「伝説を呼ぶ 踊れ!アミーゴ!」

ムトウ監督の第2作目,「踊れアミーゴ」は「3分ポッキリ」に比べると,その評価はいくらか良好ではあるものの,劇しん全体からすれば,やはりかなり低いと言わざるを得ない。

この「踊れアミーゴ」のテーマはホラーであり,劇しんにおいてホラーを初めて本格的に取り入れた作品である。ホラー自体は,「ヘンダーランド」などにも描かれているが,それを作品の一つのテーマとして取り扱う事は今までに例がなく,そういう意味で野心作と言って良い。

本作品が不評を呼んでいる一つに,そのホラーの描写があるようである。確かに,本作品は公開時において,劇場で子供が泣き出すほどのおどろおどろしいシーンが数多く登場するのは事実であり,そういう意味で子供向けを逸脱している感は否めない。

ただし,この作品はR指定にはなっていない。子供向けの作品であるのだからそれは当然であるが,R指定にならなかったのは,スプラッター映画などにあるような,過激な暴力シーンや血が描かれているシーンがほとんど存在しないからである。風間ママ(のそっくりさん)が鶏肉を食べるシーン,ミッチー(のそっくりさん)がジャッキーの車にしがみつくシーンなど,大人ですら驚くようなホラーのシーンは登場するが,それは子供を怖がらせ,大人が観てもバカにできないものである。

つまり,子供の精神衛生上,見るに耐えうる内容であると判断され,そして大人が見るにも(違う意味で)耐えうる内容である。そもそも,「ホラー」という言葉から,メインの観客層である子供を怖がらせる事に,本作品の一つの意義があり,その意味では本作品はその役割を十分に果たしたと言える。また,「ついでに」(R指定を受けない範囲で)大人も驚かせるという意味では,ホラーとしてのクオリティの高さが分かる。

また,「踊れアミーゴ」のホラー描写は,あからさまに子供を怖がらせるという範疇にとどまらない。本作品は,よしなが先生のそっくりさんが窓を閉めるとその窓が赤くなるという描写がある。これは、赤い光に包まれたという事が、そこにいた園長先生は日常の世界と切り離され、そっくりさんによって非日常の世界への入り口に閉じ込められ、その世界へ連れて行かれてしまう事を暗示している。そして、翌日の幼稚園のシーンで、園長先生がサンバを踊っているらしいシルエットが映し出されている。

観客はここで,何の説明もなく,園長先生がそっくりさんと入れ替わったという事を理解するのである。また,その後の園長先生のそっくりさんがひまわり組のガラス戸を閉めるシーンでも,再びガラスが赤くなる。ここで,風間君も園長先生と同様,非日常の世界に連れて行かれることを暗示しているのである。

このような、ガラスの色の変化やシルエットだけでどのような状況にあるかを理解させる手法は、ヒッチコックなどを思い起こさせるもので、(露骨なホラーとは別の意味で)子供向けとは思えないほど高度な表現であると言える。このように,ホラーのシーンは二重の意味で高いレベルであり,それが本作品の質を上げる要因になっている事は言うまでもない。

しかし,「露骨なホラーのシーンでは子供を怖がらせる」という事そのものに対する批判もあるかもしれない。それならば,「ヘンダーランド」でみさえとひろしの人形がしんちゃんに襲うシーンも同様の批判が可能である。「ヘンダーランド」のシーンは,明らかに子殺しを想起させるもので,親が子供を殺すという意味で,子供に対する恐怖は想像に難くない。しかし,本作品のホラーシーンそのものは,(その後のしんのすけの成長につながったという事からか)特に批判を受けていない。

また,「カスカベボーイズ」にもしんのすけやみさえが鞭で打たれたり,防衛隊がジャスティスのロボにやられるシーンなど,痛ましい場面が多く出てくる。さらに,水島監督の作品には血の描写がしばしば見られるが,それを暴力的だという批判はあっても,作品そのものが駄作とみなされる事は無い。

さて,「踊れアミーゴ」の批判に,ストーリーが分かりにくい,ギャグとホラーがうまく絡みあっていないというものがある。このような批判は,ホラーとサンバというまったく相反するといってよい要素が,本作品のテーマであり,そこからバランスをうまく取れなかったことから出ていると思われる。

しかし,本作品は「ヤキニクロード」や「3分ポッキリ」に比べて,(世界中の人間をサンバで踊らす)敵の目的は一応はっきりとしており,結局敵は何をしたかったのかはとりあえず納得のいくようになっている。本作品のストーリーがうまくいかないと感じられる観客が多いのは,おそらく本作品が登場人物の心理描写を重点に置いている事に原因があると思われる。

本作品は,風間君が母親を信じようか否かで悩み,また上尾先生やマサオ君の葛藤,そして誰が本物で誰がニセモノかで,ひろし達が悩むシーンが多く出てくる。本作品のストーリー展開がうまくいってないというが,なぜうまくいかなかったのか。それは別の方向に作品を重視したからであり,例えば「ヤキニクロード」で言えばそれはギャグであり,「踊れアミーゴ」の場合は他人を信用しようかで悩む人間の心理なのである。

ストーリーがうまくいかないというだけで,その作品を駄作と決め付ける根拠にはなるわけではない。というのも,例えば本作品にも「愛」が描かれているが,それが極めて変則的,かつ道理に適っているものであったりと,高度な描かれ方がなされていたりするからである(詳細は映画編の方を参照されたい)。

また,本作品のクライマックスシーンは,誰が活躍をするかという点で偏りを見事になくしたという側面も見逃せない。これまでの劇しんのクライマックスシーンでは,大部分が野原一家で,たまにアクション仮面やかすかべ防衛隊の面々がしんちゃんと共に活躍し,野原一家やアクション仮面,かすかべ防衛隊らが一同にクライマックスシーンに登場する事は今まで無かった。

しかし,本作品では(ジャッキーからもらった液体の力とは言え)野原一家とかすかべ防衛隊(風間君を除く)が同時にコンニャクローンを次々と倒していき,そして春日部の住人を救った後,今度は春日部の人々(クレしんのテレビアニメでおなじみのキャラクターも含めて)が,ジャッキーやしんのすけと共に,アミーゴスズキに立ち向かう。

まず,しんのすけが踊りに敗れて落胆するジャッキーを励まし,「自分の踊り」というのを見出させる。そして,サンバから春日部音頭に最初に切り替えたのもしんのすけである。この点で,しんのすけが主人公としての役割を果たしていると言える(もっとも,ジャッキーとアミーゴスズキの関係から,しんのすけがやや脇によっているという指摘もあるかもしれないが,主人公のしんのすけをさしおいて,オリジナルのキャラクターが活躍するのは,かつての劇しんにおいてはむしろ普通のことであったとさえ言える)。

さて,「踊れアミーゴ」はクライマックスのシーンで,野原一家もかすかべ防衛隊も幼稚園の先生も,(テレビアニメの他の登場人物ら)春日部の住人も全員が「参加」している初の作品である。そして,クライマックスでの「戦いは」,単に敵を叩きのめすという暴力ではなく,ここでもあくまでアミーゴスズキの心に訴えかけるという方法である。それは,アミーゴスズキにサンバを無理やり踊る事の無意味さ,本当に踊るとは何かを訴えかけて,遂に彼女(彼)を正義の方向に振り向かせようというものである。

そして,これと同じ戦い方をしているのが「オトナ帝国」でしんのすけが階段を懸命に走るシーンである。ここでも,しんのすけはケンとチャコ,そして20世紀博内の住人に,過去の子供に戻ってしまうのは単なる現実逃避であり,大人は子供に未来への道しるべを作っていかなければならないという事を訴えかけて,遂に大人達を未来へと振り向かせるのだが,このような方法で敵を改心させるのは,「踊れアミーゴ」と同じであると言って良い。

ただし,両シーンの最大の違いは,「オトナ帝国」はノスタルジーという,現実の多くの大人が共有できるもので,かつクライマックスがいわばお涙頂戴になっているのに対し,「踊れアミーゴ」ではサンバという(筆者を含め)多くの観客が必ずしも共感できるものではなく,またクライマックスもそれほど涙を誘うものではないという事である。

この違いから,両作品のクライマックシーンの評価は全く異なってしまっているようであるが,本質的には同じであるといって良い。「踊れアミーゴ」のクライマックスまで批判する人は,このような点が全く分からないのであろう。

「踊れアミーゴ」がうまくストーリーが絡み合っていないという批判は,確かに成り立つかもしれないが,それは別の事情があったという点も考慮すべきであろう。少なくとも,「3分ポッキリ」に次ぐ,劇しんの二大駄作の一つなどとみなす根拠には,やはりなり得ないのである。



監督の壁と声なき声

以上,「3分ポッキリ」と「踊れアミーゴ」の作品的な価値についての批評・考察を行なった。しかし,ムトウ監督の作品は決して駄作ではないというだけでなく,劇しん史上に非常に大きな功績を残しているのである。

2007年4月現在,「3分ポッキリ」興行収入は13億円,「踊れアミーゴ」は13億8千万円である。つまり,第2作目の「踊れアミーゴ」の方が高いのである。これは,非常に興味深い事実である。これまでの劇しんでは,本郷,原,水島各監督の作品は第1作目よりも第2作目が下回っているのである(「ハイグレ魔王」の方が「ブリブリ王国」より高く,「暗黒タマタマ」の方が「ブタのヒヅメ」より高く,「ヤキニクロード」の方が「カスカベボーイズ」より高い。興行収入については興行収入・観客動員数の詳細を参照)。

劇しんは,監督の趣味や個性が色濃く反映される作品である。監督が新しく入れ替わると,作風が大きく変化する。そして,まず第1作目にその変化した作風の劇しん(本郷監督の場合は劇しんそのもの)が初めて観客の目に触れる。そして,観客がその監督を受け入れたか否かが判明するのが,第2作目にあると言って良い。

しかし,本郷,原,水島各監督は,その時の観客に受け入れられたとは言い難かったと言える(もちろん,テレビアニメの視聴率など,その時のクレしんの人気も影響していると思われるが)。原監督のみ,後の「オトナ帝国」と「戦国大合戦」で挽回する事ができたが,本郷,水島両監督はそれっきりになってしまったのである。

ムトウ監督は,このクレしんの歴代の監督が越えられなかった壁を,初めて乗り越えたのだから,まさに名監督と呼ぶに値すると言えるのではないだろうか。それでは,なぜ作品は散々不評だったにも関わらず,興行収入では大いに奮闘したのだろうか。この事について,筆者は声なき声の存在によると考えている。

それは,クレしんのメインの視聴者である,子供達の存在である。現在は,小学生までインターネットを使い出しているというご時世のようだが,少なくとも大人(狭義に言えば青年層)ほどは使っている割合は多くないであろう。

まして,掲示板などに特定の作品について自分の意見を書き込むという子供は少ないのではないだろうか。実際,掲示板やブログの書き込みで問題に取り上げられるのは,大部分が社会的な倫理規範を身につけているはずの大人(というより若者)である。例えば,2ちゃんねる発の逮捕者(補導,書類送検を含む)には,小学生以下の子供はいない。

そして,小学校低学年や幼稚園くらいの世代にまでなれば,(全くいないわけではないと思うが)インターネットや掲示板を使っている子供はごく少数ではないだろうか。

つまり,彼らの大部分は,ネットという自分の意見を簡単に発信できる手段を有しておらず,またネット以外についても,そもそも自分の意見や気持ちを社会に向かって発するだけの行動力は備わっていないのである。そこから,ムトウ監督の批判と作品の興行収入に乖離が生じていると思われる。

筆者は,たとえ現在ムトウ監督の評判が散々であっても,彼らが成長し,その時もクレしんを見続けて,もしくは一度「卒業」したクレしんと再会し,ムトウ監督の作品をもう一度見直し,再評価を下す時が来るのを信じている。



結論

ここまで書いてきた事をもう一度整理すると,ムトウ監督の「3分ポッキリ」と「踊れアミーゴ」は,確かに難点が存在すると言えなくもないが,多くのファンが言うような駄作などでは決してなく,それぞれ素晴らしい側面も持ち合わせており,さらにムトウ監督の第2作目の興行収入は第1作目のそれを初めて上回った事から,名監督とさえ呼ぶに値する面も存在しているという事である。

しかし,まだこのような批判があると思われる。それは,ムトウ監督はコアなマニアで分からないような,オタク向けのパロディネタを入れている,それがクレしんを貶めていると。しかし,何をパロディとして使用するかについて,特に制約があるわけではない。

例えば,円谷特撮の代表作の一つでもある「ウルトラセブン」の第43話「第四惑星の悪夢」(実相寺昭雄監督)は,ジャン・リュック・ゴダール監督の「アルファヴィル」というフランス映画のパロディである。この裏話は,あまり知られていない。つまりコアなマニアでないと知らない,かなりマニアックな事実であると思うが,だからといって,この事が同作品を駄作などと決め付ける根拠には,当然ながらならない。

オタク向けのネタに反発する人はいるだろう。それはある意味当然でもある。しかし,その手のパロディはあくまでも表面上の事であり,作品そのものの評価を決定付けるものではない。「子供が親を呼び捨てにする」,「お尻やぞうさんを出すといった,いやらしいシーンが多くて不愉快」という事で,PTAの方々はクレヨンしんちゃんを「教育に悪い」と決め付け,「子供に見せたくない番組」にしているのだが,オタク向けのパロディに反発し,それでムトウ監督の作風そのものを批判する人は,そのPTAの方々と変わらない。

その作品は本質的に何を訴えかけているのか,それをロクに見ようともせずに,ただ表面上に存在する自分達の嫌う要素が登場しているだけで,その作品や監督を全否定するという意味では,PTAの方々とアンチ・ムトウ派の方々は,その短絡的思考の面において全く同類なのである。彼らが仲良くクレヨンしんちゃんを「子供に見せたくない番組」だと噛み付く日も,そう遠くはないと思われる

確かに,オタク向けのパロディや性的にいやらしい下ネタで全ての人々を笑わせる事は出来ない。そういったところに反発する人々が出てくるのは,当然である。そういうところ反発したり,批判するのも個人の自由であり,どう感じようと構わないことである。

しかし,クレヨンしんちゃんもムトウ監督の作風も,決してそういう側面のみを描いているわけではない。他の側面も見て,冷静に作品を見つめる事も大事なのではないか。少なくとも,作品や作風そのものを全否定するような評価は間違っていると,筆者は考えている。

いよいよ,ムトウ監督の3作目,「嵐を呼ぶ 歌うケツだけ爆弾!」が公開される。実は,筆者は既に試写会で鑑賞済みなのだが,どんな作品だったかは,ここでは一切触れない。ファンの方々が自分たちで判断し,面白かったのなら面白かったと思い,つまらなかったのならつまらなかったと思っていただければ良い。

しかし,作品を自分の感性だけで「史上最大の駄作」などと評価して欲しくない。なぜ,「史上最大の駄作」と言えるのか,その根拠は何なのか,本当にそうなのか,よく考えてから,改めて判断して欲しいと思っている。



あとがき

私は幼少の頃,食べ物に関してはしんちゃんかそれ以上に好き嫌いの激しい子供でした。今では好き嫌いはほとんど無くなりましたが,牛乳だけは今でも嫌いです。何でかって?理由は簡単,「臭いから」です。人々が牛乳を飲むのを見て,よくあんな臭いものを飲めるものだと,眉をしかめたくなった事も一度や二度ではありません。

しかし,私は牛乳が栄養豊富な飲み物である事は認識しており(アレルギーを引き起こすなどといった問題点は,とりあえず措くことにする),子供が牛乳を飲む事は間違っているとは思いません。ましてや,牛乳という飲料をこの世から無くせなどと思った事もありません。

なぜ,私はこのような話をしたかというと,ムトウ監督に反発する方々がその反発する要素(おそらくオタクネタ)が,私にとって牛乳なのかと思うからです。たとえ,嫌なものでも,それだけで全否定するのは正しい事ではない。それが,私が本質的に言いたい事なのです。

本ページが少しでもムトウ監督の再評価を促し,氏の劇しんの最新作「嵐を呼ぶ 歌うケツだけ爆弾!」のヒットに微力ながら役に立てるのであれば,幸いこの上ありません。

最後まで読んでくださった方々,私の主張に長らく付き合っていただき,ありがとうございました。

2007年4月20日

クレヨンしんちゃん研究所
管理人チョルス



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