「ちょー嵐を呼ぶ 金矛の勇者」
試写会レポート


ブログ記事「最後の試写会!金矛な93分!」の作品感想解説付き




「伝説を呼ぶ ブリブリ3分ポッキリ大進撃」、「伝説を呼ぶ 踊れ!アミーゴ!」、「嵐を呼ぶ 歌うケツだけ爆弾!」、これらの作品に続き、私は今年もまた劇しんの試写会に行く機会に恵まれました。今年が最後の試写会となるでしょうが。

そういうわけで2008年4月13日、私は有楽町の朝日ホールへ向かいました。今年も水橋ホトリさんとご一緒するということですが、私は集合時間の9時45分よりも早く着いてしまったので、有楽町マリオン内をフラフラしていました。中の百貨店はまだ開いていませんでしたが。

集合時間の9時45分、有楽町マリオン前にて同行者の水橋ホトリさんとお会いしました。お会いする前に、私は自分のジャケットの胸に、昨年の「ケツだけ爆弾」公開初日に買った、15周年記念のピンバッジを付けました。コンセッションの飲食物を1000円以上買うともらえるというピンバッジです。このピンバッジは試写会終了まで付けておりました。
朝日ホールの入り口前に立ててあった看板
さて、お会いするなり11階の朝日ホールのある階へ向かいました。昨年の試写会では、10時に来たら既に人が数人並んでいたという事があったので、今回はさらに15分早めたわけです。

しかし、なんということでしょう。昨年よりも15分早く来たというのに、既に20人近くのお客さんが並んでいるではありませんか!う〜ん、彼らの目的がクレしんならそれほど不満もないのですが、昨年のSEAMO目当て同様、おそらくDJ OZMA目当てなのでしょうかね。

紅白歌合戦でも騒動を起こしたというのに、昨年のお客さんの数から単純に考えれば、SEAMOの数倍は人気があるということに・・・。それとも何か、私が昨年の試写会の事を書いたから?いや、それは無いでしょうが。

ただ、その20人というのは、母親と小さな子供たちという親子連れもかなりいたので、本当はしんちゃんのために・・・、なら良いのですが、子供をダシにしてクレしんの試写会、そこでDJ OZMAなんていうのであれば、ちょっとねえ・・・。

そういうわけで少々不満ながらも私と水橋さんは並ぶことにしました。並んでいる最中、水橋さんは下の9階にあるチケット売り場で、来週公開される本作品の初日舞台挨拶付きの会の前売り券を買いに行っていました。私は既に買っていたのですが、これって昨年と同じシチュエーションなのですよね。

10時19分頃、係員がやってきて、4列になって並ぶように言ってきました。そういうわけで、4列になります。10時39分、我々は座って待っていたのですが、立たされて、55分に係り員の誘導で朝日ホールの中へ入ります。

11時近くなっても、昨年ほどはお客さんは並んでませんでした。当初は昨年ほど人気が無いのかと思いましたが、どうもそうではなく、どうやら外で入場制限しているようでした。今年はわりと厳しいのかなと思ったのですが、すぐにその厳しさを実感することになります。
この階段の上に劇場があります
ところで、ここで並んでいると私よりも少し後ろにいるある女性が非常に気になりました。何でかって?いや別に変な想いを抱いたわけではありませんよ。その女性は髪の毛を赤く染めていたのですが、手にしていた携帯電話を見て驚愕したのです。何と、つけていたストラップが10個くらいあり、全てしんちゃんだったからです!

しかも、私の記憶によれば、ほとんど全てが、いわゆるご当地しんちゃんというものだったと記憶しています。ご当地しんちゃんって、なかなか手に入らないのですよね。当時の私も、東京の江戸前穴子しんちゃんと大阪のたこ焼しんちゃんしか持っていなかったのに。いや〜、上には上がいるものだ。あの女性はまさにファンの模範とでも言うべき方でしょう。私も頑張らねば、うん。

さて、11時50分過ぎになって、いよいよ開場となりました。プレスシートやポスター、そして中学生以下のお子様しかもらえないはずの入場プレゼント「勇者のキンポコ」等をもらって、いよいよ劇場内へ猛ダッシュ!と思いきや、今年は入場後も係員の誘導に従わねばなりませんでした。う〜ん、劇場へ走るのを防ぐためなのでしょう、安全対策の一環として。まあ、仕方ありません。ここで走ってつまみだされては元も子もないので。

さて、座席ではどこに座るかということで、水橋さんと少し相談しました。一番前は取材関係者席なので、我々観客は2列目以降になります。しかし、2列目は私たちより前にいた(自主規制により削除)な女性たちにより独占されており、私たちは3列目以降ということになりました。

当初は水橋さんのご要望に従って、4列目の席に座りました。D-15に水橋さんが、右隣りのD-16に私が座りました。しかし、私はどうしてもできるだけ前の席に座りたくなり、水橋さんにお願いして、席を移動することにしました。前から3列目の席なら、少し中心から外れるものの、まだ空いている席はあったので。

そういうわけで、私は水橋さんに自分のわがままを受け入れてもらい、私はC-16、水橋さんは右隣りのC-17に座りました。しかし、ここでまた座席の変更です。私たちのさらに右隣りに座っていた親子がおり、その母親の方が、私たちに席を交換してくれないかと言ってきました。その母親には小学校低学年ほどの娘さんと息子さんがいたのですが、どうも娘さんが席に不満を持っていたようです。中心からさらに右寄りになってしまうのはやや不満でしたが、この子供たちの願いを拒否することなどできません。私は未来のクレしんヲタ養成の一環として、席を交換することに同意しました。水橋さんも同意してくれました。

で、最終的に水橋さんはC-19、私はその右隣りのC-20の席になりました。私はこういう場になると緊張してしまい、トイレに2回ほど行っていました。劇場内では「ユルユルでDE-O!」や「人気者で行こう!」が流れており、私はプレスシートなどを見ながら、ひたすらテンションを上げていました。水橋さんはプレスシートに載っているダークを見て、実はオカマなんじゃないかと言っていました。そういえば、2年前もそういう事を言っていましたね。

ところで、私の席の右は席があと二つあり、その先は通路となっています。そして、その通路に面したC-22の席では、先ほどの携帯ストラップ10個の赤毛の女性がおりました。彼女は、私の右隣りの開いた席に、携帯を置いており、私は水橋さんにこっそりその携帯を見るように言ったりもしました。

12時28分頃、ブザーが鳴り、31分に場内は暗くなりました。そしてすぐに舞台の方が明るくなり、「オラはにんきもの」が流れました。定番の歌ですね。いよいよ舞台挨拶の開始というわけです。

さあ、ここでこの舞台挨拶の司会を務める、今年三十路を迎える、じゃなかった、まだまだバリバリ20代の(売間久里代と同い年の)前田有紀アナウンサー(テレビ朝日)の登場です。前田アナも、子供の頃からクレしんのファンだそうです。当然ですナ。なお、後で知りましたが、前田アナの携帯の着信音はしんちゃんの声なんだそうな。いや〜ん、かわいい〜(←しんちゃんの声がネ、変な誤解はしないで)。ちなみに、これを書いている現在、私の携帯はしんちゃんのストラップが6つ、待ち受け画面もしんちゃんです。どうだまいったか、ワハハハハ(・・・って、対抗してどーする)。

12時33分、前田アナから撮影禁止などの注意事項があり、いよいよしんちゃんを呼ぶことになりました。最初に2回「しんちゃ〜ん」と練習しました。この時、私はかなり控えめな声で言っておりました。だってえん、恥ずかしいんだも〜ん。しかし、いよいよ3回目の本番では、

「せーの」

しんちゃ〜ん

と、私は子供たちと一緒にバカでかい声でしんちゃんを呼びました。いひひひひひ。

すると、しんちゃん(の着ぐるみ)が、ひまわり(の着ぐるみ)を抱いて登場しました。

今回の映画は、ドン・クラーイという闇の世界の悪者たちと戦うという話なんだそうです。どうも、しんちゃんはそのドン・クラーイと地球を結ぶ扉を開いてしまったというのです。で、その後周りではどんどんおかしくなっていくんだそうです、例えばひろしとみさえの仲がすさんだり、ひまわりが泣きやまなかったりと。

そんな中、マタという「男の子」が助けに来てくれて、しんちゃんは選ばれし者なんだそうです。いや〜、今回もしんちゃんは大活躍してくれるヨ・カ・ンですねえ〜。

と、そこへ(12時37分)、(自称)春日部が生んだカリスマ主婦(笑)みさえと、(自称)出世街道まっしぐらのエリートサラリーマン(笑)ひろしが登場。私たちだって活躍してたわよ、というみさえです。

ひろしは、今回の映画では昇進などお父さん方にも大変興味深いお話が出てくるんだそうです。う〜む、出世街道に乗れるのか、ひろし。そんなのが別のテーマだったりして。

12時39分、しんちゃんのお友達が駆けつけてきてくれているとのことで、そのお友達、DJ OZMAが登場しました。案の定、ここで私の前や周囲にいた女性たちがやたらと騒ぎます。まあ、彼女たちにしてみれば、それこそ神にも等しい存在なのかも分かりませんが、私からすれば、ただのアフロな男です。

しかし、OZMAちゃんに私は好意を持つようになりました。何でかって?しんちゃんと共通点が多いからです。きれいなおねいさんが大好き、底抜けに明るい、そして何よりも、すぐ脱ぐ(会場笑)。まさに3本柱な共通点。

さらに、OZMAちゃんはしんちゃんのファッションセンスも褒めあげておりました。この21世紀において、この赤いトレーナーと、この、何と言うか、レモン色のハーフパンツという原色づかい、なかなかどうしてこれだけ上手い人もそうはおらんでしょうとのことです。そして、スキンヘッドに、細眉なんかにも流されない凛々しい眉毛。

しんちゃんはお礼に、自分の中身、そうパンツの中のOZMAちゃんにぞうさんを見せていました。OZMAちゃんによれば、5歳児の中では平均越えていたとのことで、なかなかのビッグキャノン砲なんですね。と思いきや、日本男児の平均は12.6で、そのレヴェルからすればまあまあかと、まあそんなに細かく話すことでもないですね。ちなみに、私の大きさですが、これを書いている今、ちょっと脱いで定規で計ってみましょう。えーと、まず平常時では

さて、管理人が数百文字削除するというハプニングがありましたが、試写会レポートの続き行きます。ここで、OZMAちゃんが今回の映画の主題歌「人気者で行こう!」を披露することになりました。会場は拍手です。OZMAちゃんも、今日は素っ裸になったりしなというわけですが、おかしな発言をしない保証はないとのこと(既にやってますが?)、まああったらお父さんとお母さんがしっかりですね、息子さん娘さんガタンゴトンしてあげればよろしゅうことであります。

12時44分〜47分、みさえとひろしとひまわりは退場して、OZMAちゃんの歌が披露されました。しんちゃんは後ろで踊りを披露とのことです。が、歌が始まると16人のしんちゃん、ではなくしんさん(笑)が突然登場したではないですか!

どういう事かと言いますと、しんちゃん全くと同じ服装をして、しんちゃんと同じ髪型、しんちゃんと同じ太い眉毛をつけた16人のオッサンたちが、しんちゃん(の着ぐるみ)と一緒にダンスをして、OZMAちゃんの歌を盛り上げていたわけです。しんさん(笑)たちは足のすね毛も余裕、普通ならキショイ、キモイでしょうが、今回は全くそういう感情を起こさせなく、非常に素晴らしい方たちと思えてしまうから不思議です。「人気者で行こう!」という歌にも大いに惚れこんでしまいました。

12時48分、歌が終わって16人のしんさん(笑)が退場したのち、しんちゃんたちに命を吹き込んでいる、声優さんたちの登場になりました。しんのすけ役の矢島晶子さん、みさえ役のならはしみきさん、ひろし役の藤原啓治さん、ひまわり役のこおろぎさとみさんです。

では、この4人による、今回の映画についてのメッセージです。

まずは矢島晶子さん。しんちゃんの声で、しんちゃんの着ぐるみにも気を遣いつつ、今回のしんちゃんはテレビとあまり変わらないようです。日常の生活に冒険がいきなり入りこんできて、いつも映画で見せるヒーローというよりは、普通の男の子とのことです。そうそう、今回の矢島さん、ずっとしんちゃんの声で話しており、少し残念でした。矢島さんの(私が書くとキモイかもしれませんが)可愛らしい声を拝聴したかったのに!残念!

続いてならはしみきさんですが、ならはしさん、16人のしんさん(笑)が凄まじい勢いで退場するのを目の当たりにしてしまったため、頭が空っぽ状態、言うべき事がキレイさっぱり飛んでしまったとのことで、試写会を観て、我々観客の想像にお任せするとのことで。あれよ、って感じですな。さすがしんさん(笑)。

次に藤原啓治さん。ほどほどな調子という事で、可もなく不可もなく活躍していらっしゃるようです。今回のひろしでは出世欲があるところが見られるそうです。万年係長に甘んじている訳ではないそうで、藤原さんもそんなひろしにご満悦のようです。そういえば、「3分ポッキリ」で部長だとか、専務だ社長だと言っていましたっけ。

最後にこおろぎさんです。ひまわり声で「あいゆ〜たた〜い」なこおろぎさんですが、しんちゃん声の矢島さんに「わかんねえよ!」と突っ込まれます。てなわけで、地声で話すこおろぎさんですが、こおろぎさん、ならはしさんと同じく16人のしんさん(笑)が凄まじい勢いで退場するのを目の当たりにしてしまったため、頭が空っぽ状態、言うべき事がキレイさっぱり飛んでしまったとのことで、観てのお楽しみとのことです。あれよ、って感じですな。さすがしんさん(笑)。

12時55分、声優さんたちの撮影が行われました。最前列のマスコミ関係者の一同が写真を撮っていました。

12時58分、声優さんたちが退場し、しんちゃんとOZMAちゃん、そして16人のしんさん(笑)も再び登場。この時、私の後ろに座っていた女性がDJ OZMAをナマで見た感動のあまりか、「これは夢ですか?」と言っているのが聞こえました。ほっぺたをつねったろかと思ったりして。

しんちゃんらとの撮影で、OZMAちゃんは2006年の紅白歌合戦(笑)以来、緩やかな下降線をたどっていく中、しんさんに救っていただいて、大変光栄な事だと語っておりました。これからも「アゲアゲ」という言葉を使っていくので、よろしくとのことでした。

さて、しんちゃんとOZMAちゃんと16人のしんさん(笑)らの撮影も終了したのが13時1分、撤収が開始されました。13時3分、司会の前田アナのみとなり、4月16日(水)発売予定の「人気者で行こう!」のCDとイチゴ味チョコビの宣伝をしていました。

13時4分、舞台挨拶が終了しました。

13時5分、いよいよ「映画クレヨンしんちゃん ちょー嵐を呼ぶ 金矛の勇者」の上映開始です。ここでの感想は後で述べるとして、とりあえず上映終了後の事を先に書いておきたいと思います。

14時36分頃、劇場内に鳴り響く拍手とともに上映が終了し、私は興奮が冷めきれずにいました。水橋さんと会場を出る際、イチゴチョコビをもらいまして、あまりのハイテンションだった私は11階から1階に行く、下りの混雑したエレベーターの中で「むひひひひ」と笑っておりました(これホント)。水橋さんはひいておりました。まあ当然か。
出口で配布されていたイチゴチョコビ
その後は座談会という事になり、一昨年の「踊れアミーゴ」の試写会の日に水橋さんが利用し、昨年の「ケツだけ爆弾」の初日舞台挨拶付きの会での3回目の座談会でも使用した、有楽町マリオンの向かいにある“petit cafe”に入りました。

ここで、「金矛の勇者」の内容について色々話しました。上映前に、水橋さんはダークが実はオカマではというのは外れたわけですが、マタが女であるのは意外だ、吹雪丸ではないかといった事を話したと思います。

また、この作品はストーリーにあまり弾みが無く、子供が観たら若干面白味に欠けるのではないかという事も話しました。この作品が昨年の「ケツだけ爆弾」の興行収入を超えるのは難しいのではないかと私は水橋さんに言いましたが、それが見事に悪い方向に的中してしまったようです。まあ、その件はまた別の機会に。

その後、私はここでイラストを水橋さんにプレゼントしようと、しんちゃんとマタのイラストを描きましたが、何しろテーブルが小さくて描きにくいのなんの、2、3枚ボツを出しました。この時、水橋さんはコーヒーを既に飲み終えており(私のコーヒーはまだ残っていました)、気を遣って返却トレイに持って行ってくれていました。

何とかヘタクソな絵を一枚仕上げ、それを水橋さんにお渡ししました。サイトでは一切載せていませんが、私はしんちゃんのイラストの練習も結構しており、専用のノートも持っています。何しろ、今年の正月で出した年賀状で、当時在籍していたゼミの同輩と後輩に、しんちゃんのイラストを描いて出したくらいですから。まあ、まだまだ下手の横好きというレベルではあります。余談ですが、年が明けて数日経って、後輩の女の子の一人から、ネットで拾ってきたと思われるしんちゃんの画像をつけた年賀メールを受け取りました。

話を戻しますと、私がイラストを渡すと、水橋さんもしんちゃんのイラストを描いて、私にくれました。私なんかよりもうまいです。他の方もそうですが、独特のタッチがあるのですね。私はそういうのが無いと思いますが、以前に別の方から原作のしんちゃんに似ているという指摘を受けた事があります。

座談会は14時50分ころから始まり、16時過ぎに終わりました。この後、水橋さんは用事があるとのことなので、16時を回ったところで切り上げることにしたのです。

座談会終了後、有楽町駅前でお別れし、私はそのまま家へ帰りました。家に帰った後、「金矛の勇者」の感想を「クレヨンしんちゃん研究所日記」に掲載するべく、執筆を始めました。それと、あらすじの執筆も行いました。

その感想が、「最後の試写会!金矛な93分!」ですが、タイトルからお分かりになれると思います。今回の試写会が最後になると思うのですね。来年以降は無理になるはずです。

ここで、私は「金矛の勇者」の感想を書く際に、私の分身9人に感想を言わせることにしました。彼らにはネタばれをしない範囲でさせたので、またネタばれをする不届き者もいましたが、その際は削除をしました。

それで、彼らが語っていたのは一体どんな内容があったのか、ここで私は一つずつ解説していきたいと思います。それと、彼らの名前についても触れたいと思います。ちなみに、太字になっている部分は、「最後の試写会!金矛な93分!」からそのまま転用したものです。



(なお、以下の感想には哲学や社会学に関する学術的な理論に言及している箇所があります。興味の無い方は読み飛ばしてください。)

ハインリヒ 「管理人の許可も出たことですし、劇場版クレヨンしんちゃん『ちょー嵐を呼ぶ 金矛の勇者』について色々話し合いたいと思います。えー、それでは意見があればどんどん出してみてください。もちろんネタばれは無しですよ」

フェルディナント 「いやあ、なんていうかな、そのプリ・・・、プリ・・・。ぐへ、ぐへ、ぐへへへへへ・・・。なんかいやらしくってよ。うひひひひひ」

このフェルディナント君ですが、この後オットー君が指摘しているように、色情狂なわけです。まあ、「金矛の勇者」のお色気シーンばかりに目が行ってしまっていたというわけですな。「プリ・・・」というのは、同作品のお色気キャラ、プリリンである事は言うまでもありません。


オットー 「まったく、また出たな、色情狂め。鑑賞中に一体何を想像、というより妄想してたんだよ。」
フェルディナント 「うおおお!ダメだ!オレのバズーカーがオンファイヤーだぜい!」
オットー 「うわ!脱ぎだしやがった!誰か取り押さえろ!ズボンとパンツを一緒に脱いでやがる!」
ヨーゼフ 「このヤロ!やめんか!何がバズーカーだ。ミニウインナーがいいとこのクセに」
ヘルムート 「オラ!おとなしくしろ。暴れるな!まったく、興奮しやがって」
ハインリヒ 「えー、それでは、誰か他に意見は」


ルートヴィヒ 「この映画『ちょー嵐を呼ぶ 金矛の勇者』ですが、劇中の冒頭でみさえに咎められる辺りのシーンにおけるしんのすけという人物の行動原理には、そもそも認識がいかなる過程によって成立するかという問題提起が暗示されているのではという解釈が可能となってくるわけであります。即ち、哲学者イマヌエル・カントによれば、認識とは各々の人物の主観によって成立しうるものであり、対象を模写するだけという客観的観念は意識や精神に回帰するわけであって、哲学者ヨハン・ゴットリープ・フィヒテもまた絶対的自我が基調となる観念論を支持したわけであり、このようなコペルニクス的転回を経てこそ、伝統的形而上学の否定へと・・・」

インテリ肌のルートヴィヒ君ですが、この感想を理解できた方って、どれくらいいらっしゃいますかね。実はこの台詞、冒頭のおもちゃ屋で、しんちゃんがアクション仮面ソードなど、どのおもちゃを買ってもらおうか迷うシーンを、思いっきり抽象的に考察したシーンなのです。

解説をしてみますと、私たちは外部にある物をどうやって認識するのかというと、それは単純に物を模写するというものではないのです。物を認識する際、各々の主観によって異なってくるわけです。例を出しますと、私はムトウ監督の作品の擁護論を何度も書いていますが、私にとってムトウ監督の作品は非常に面白いものであると認識するわけです。一方で、アンチ・ムトウのファンにはムトウ監督の作品はひどくつまらないものであると認識するでしょう。つまり物を物自体として認識することは、人間には不可能というわけです。まあ、こう書いてしまうと、私のムトウ監督擁護論も私の主観が入っていると言わざるを得なかったりもしますが。

この認識論にあてはめると、しんちゃんにとって、アクションソードらのオモチャは一つ一つが異なって見えるわけです。ですから、どのオモチャが最も良いかを吟味することとなるわけです。一方で、オモチャそのものに関心の無いみさえは、オモチャはどれも同じものであると認識しており、しんちゃんは同じもので迷っているとみなすわけです。この認識の違いが、しんちゃんとみさえの間でいさかいを起こす要因になっていると言えるのです。ちなみに、認識論についてはカントの「純粋理性批判」が詳しいようですが、とにかくベラボウに難しいです。普通に読んでも5分で挫折します。いや、これは冗談ではありません。本当ですよ。もっとも、哲学の学術書とはそういうものですが。


ハインリヒ 「あーもう、分かった分かった!他には誰か?」
カール 「ひろしのサラリーで大丈夫なのかと心配しました。やっぱり描写されていた分量から、かなりの負担になるのではと思うですが」
ヴィルヘルム 「なるほど、例のシーンについてですな。しかしまあ、ひろしはそれに比例するだけの出来事が起こっているから、そうでもないのではと思うのですが。もちろん、最初は反比例だが、例のあれが本格化した後は比例するのだから。」


カール君の言う、ひろしのサラリーで大丈夫かというのは、しんちゃんがクロを拾ってきたために、エサ代がかなりの負担になってしまい、ひろしの給料で二匹の犬を飼っていけるのかという事を言っているわけです。みさえも言っていたように。

これに対して、ヴィルヘルム君はそれに比例するだけの出来事が起こっていると言っていますが、これは重役の昇進を言い渡されるシーンを言っているわけです。重役にもなれば、今までよりも給料は比べ物にならないくらいに跳ね上がるでしょう。犬を2匹養うなんてヨユウですね。

最初は反比例というのは、ひろしが課長になれるかと思いきや、結局課長への出世話はボツという旨を部長に言い渡されるシーンの事です。もっとも、降格になるわけでもなく、現状維持ですので反比例という言い方はあまり適切ではないですね。余談ですが、それでひろしが便所で泣き崩れるシーンが出てきますが、試写会ではこのシーン、かなりウケておりました。それと、ヴィルヘルム君の言う「例のあれ」とは、ドン・クラーイの扉が開いたことで、その世界の意識が地球に流れこむ事を指します。世界が異常になった事で、ひろしが重役という異常事態(笑)が起こるわけですね。


ヘルムート 「しかし前半における、しんのすけだけが認識する一連のシーンは、なんだか奇怪だったなあ。ええと、何だっけ、あの作品を思い出したよ」
オットー 「フランツ・カフカの『審判』では?」
ヘルムート 「そう、それそれ!あれも日常と非日常という感じだな」


チェコのドイツ語作家、フランツ・カフカ(1883〜1924)の代表作の一つ「審判」ですが、この話はヨーゼフ・Kという主人公が、ある朝目覚めたら、二人の男にあなたは逮捕されたと告げられ、定期的に裁判に出頭しなければならないという話です、ただし、裁判以外では普段の日常生活は送っても良いとのことですが、そもそもなぜヨーゼフ・Kが逮捕されたのかは、作中では言及されていません。ここで、研究者の間で様々な推測がなされています。

さて、しんちゃんの場合、ある夜(朝ではなく)目覚めると、時計のボーンという音と鐸のチーンという音が鳴っており、外に出ると、そこはあたかもドイツ表現主義を思わせるかのようなシュールな光景が広がっていました。このシーンが何だか「審判」で主人公が突然逮捕されるという、つまり非日常の世界に放り込まれるシーンとして類似しているとも言えるわけです。強引な解釈ではありますが。


ルートヴィヒ 「カフカの『審判』における日常と非日常の狭間には『境界領域』というものが横たわっているわけです。しかし、この『境界領域』というのは言い換えれば生と死の挟間にある超現実的な世界であり、そもそも今回の『金矛の勇者』においてその概念が当てはまるか否かはまた別問題なわけです。さて、『審判』の哲学観が『金矛の勇者』にも共通する部分についてですが、しんのすけがテレビアニメにおける日常の生活を当然と思い込むことにより、人間の実存の危機に立たされるわけです。つまり、劇場版における展開はある種の救いという要素が含まれているという解釈も不可能ではなくなってくるわけです。結果、本作品においてしんのすけ、やがて野原一家はまさにその不安の解消のために単なる自己正当化を行う姿を晒すのではなく、各々のストイシズムを超越し、超自我と自我の対立における表層的漏洩をも抑圧しつつ、ジクムント・フロイトの説におけるエスの解放を無意識下において断行に踏み切り、しかもそれは完全なるものではなく自我における僅少的束縛といういわば隔靴掻痒とでも言うべき心情が含有された行動へと踏み切らざるを得なくなるわけであります」

ルートヴィヒ君の解説がまた始まりましたが、彼の言っているのは文字通り「審判」における哲学観を「金矛の勇者」にも当てはめられるだろうということです。しんちゃんや野原一家が普段の日常の生活を当然であると思いこんでいる事は、実は危険であり罪悪であるということです。なぜなら、人間がもともと非常に脆弱な存在にすぎないという本来の姿を忘れているからであり、非日常の世界に放り込まれるのは、その罪悪に対する「逮捕」であるという解釈がされうるわけです。

しかし、この非日常の世界に放り込まれる展開は、実存の危機にさらされている自己の破滅の危機にある野原一家がは自分たちの気付いていない無意識下において、己の真の存在を保証する共同体を求めており,その求めに応じた救いの手こそが非日常の世界であり悪役たちであるという別の解釈もなされうるわけです。うーん、私の解説もなんだか、ルートヴィヒ君のようになってしまいましたね。

残りの自我だの超自我だの、隔靴掻痒(かっかそうよう。はがゆく、もどかしいという意味)だのは、どうぞお好きに解釈していただければ思います。あたしゃ、もうわけわからん・・・。

ちなみに、上記の「審判」に対する解釈については、以下の文献を参考にしています。

・谷口茂 (1983年) 『フランツ・カフカ論』 明星大学出版部
・有村隆広 (1985年) 『カフカとその文学』 郁文堂


フェルディナント 「まつたけちゃーん!ビヨヨ〜〜〜〜ン!」
ヘルムート 「ああ、また出しやがった!まったく、しょうがねえな!おい、おとなしくしろ!」
オットー 「やれやれ、世話が焼ける。まあ、そういう性分だからしょうがないかな」
ハインリヒ 「うーん、なかなか面白い感想も出てこないものですかね。まあ、ネタばれ禁止だからしょうがないですか」

ネタばれ無しで感想を書くのはなかなか難しいのがあるのですよね。だからと言って、フェルディナント君の変態ぶりはネタばれ無しからの欲求不満とは何ら関係がなく、彼の性的嗜好なのでしょうが。で、ここでちょっとピンチが来るわけです。


フェレンツ 「ああ、もう!ネタばれ無しなんて面白くねー!オレがここでストーリーを全部バラしてやる!」
ヴィルヘルム 「何だと!やめろ!そんな事をしたら・・・」
ハインリヒ 「は、早く取り押さえなさい」
フェレンツ 「ええと、まず冒頭のシーンでは」
ヴィルヘルム 「わーわーわー!!!!」
フェレンツ 「そうそう、しんのすけに味方するあのキャラなんだけど」

ネタばれをしたいという誘惑に負けたフェレンツ君、こういう不届き者も中にはいるわけでありまして。ちなみに、「しんのすけに味方するあのキャラ」とは、マタ、フルネームでマタ・タミの事を指します。

ヘルムート 「あー!わーわー!!!」
フェレンツ 「実は(ヘルムートの叫び)…ぶ…(ヨーゼフの叫び)…な…(カールの叫び)…け…(オットーの叫び)…こ…(ヨーゼフの叫び)…つ…(ヘルムートの叫び)…ん…(ヴィルヘルムの叫び)だよなあ」


フェレンツ君の言っている事が、他の連中の叫びでかき消されていますが、わずかに聞こえる部分もあります。ここで、フェレンツ君の言っていた事を、以下に書いておきたいと思います。なお、下線が引いてあるところは、日記にも書かれていた部分です。

「そうそう、しんのすけに味方するあのキャラなんだけど、」

(そうそう、しんのすけに味方するあのキャラなんだけど、) 実はきまる(吹雪丸)とおじで(同じで)、いっん(一見)おと(男)なんだけど、じは(実は)おな(女)なんだよなあ

フェレンツ君がここで言っていた事をもう一度書くと、

「そうそう、しんのすけに味方するあのキャラなんだけど、実は吹雪丸と同じで、一見男なんだけど、実は女なんだよなあ」

となります。「金矛の勇者」の最大級のネタばれは二つあって、その一つが、マタが実は女である事なのですね。ちなみにもう一つは、クロの正体が実は銀の盾ギンギンである事でしょう。あのモノサシが、実は金の矛キンキンである事は、何となく予想がつくのではないでしょうか。私も、金の矛とまでは思いませんでしたが、モノサシを見た時、何かあるなと思いました。


カール 「ヤバイ!おい管理人!直ちにネタばれ箇所を修正してくれ!」
ハインリヒ 「管理人頼みます!」

やれやれ、しょうがない。まあ、こうなることは予想してたけどね。ちょっと修正しますか。

フェレンツ 「●●●●●●●。●●●オープニングは●●●●●●●●●●●●●●。それでしんのすけは幼稚園から●●●●●●●●●●●●●●●。しかし●●●●●●●●●●●●●●●●ひろし●●●●●●●●」


黒丸の部分を外してもう一度ここに書いてみます。

「マタの父親が金の矛を地球へ送る。それで、オープニングはここ数年と変わらず「ユルユルでDE-O!」。それで、しんのすけは幼稚園から帰るとクロを見つけて家に連れて帰る。しかし、みさえに飼うことを反対されるが、ひろしから飼っていいと言われる。」


うーん、いちいち文字を修正してたのでは効率が悪いから、思いきって削除してしまいましょう。読者の皆さんにも書いておかなきゃね。

(そのまましばらくお待ちください)

フェレンツ 「ラストでは●●●●●●●●●●●。●●●●●●●●●●●●●●●●●●●。エンディング●●●●●●●●●●●●きの●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●」

続き行きます。

「ラストではしんのすけはマタたちの絵を描く。誰にも信じてもらえず。自分だけの思い出ということになるわけである。エンディングはDJ OZMAが歌い、デザインは、しょきの(初期の)スタイルに近いものになっている。つまり、「ハイグレ魔王」〜「ヘンダーランド」頃の。

まあ、こんなもんですね。ただし、黒丸の数と実際の文字数は正確に対応しているわけではないのであしからず。


ハインリヒ 「ああ、よかった。管理人が処理してくれた。まったく、迷惑かけて」
フェレンツ 「ま、オレもしゃべる事はしゃべったからもう満足だわ」
ヴィルヘルム 「本当に、何を考えてやがる」
ハインリヒ 「まあ、とにかく続き行きましょう」
ルートヴィヒ 「理想の世界形成における野原一家をとりまく状況は、表層上の観点からすると社会学の祖であるエミール・デュルケームの提唱した集団本位による解釈がされうると思いますが、実際にはアノミーとほぼ一致するという解釈がされうると考えられます。しかし、アノミーの理論は批判もなされており、殊に1965年ジョンソン・バークレーが”American Sociological Review”で発表した論文 "Durkheim's One Cause of Suicide" によってほぼこの説の崩壊がなされているわけです。しかし、崩壊といえどもそれは概念が存在しなくなるわけではなく、そもそもアノミーは自己本位主義と概念的に同等で扱われるべきであり、まさに野原一家の周囲、殊に幼稚園における園児たちの心理的状況は自己本位主義に基づく点で非常に興味深いのであります。なぜなら、バークレーの理論によれば、自己本位主義により道徳的感情の弱まりを引き起こし、それこそが本作品における非日常の心理状況を極めて的確に示しうると思われるからであります」


ルートヴィヒ君の小難しい解説がまた始まりました。もはや、周りも止める気を失っているようで。ここでは、アノミー(anomie)、集団本位主義、自己本位主義という、社会学の祖であるエミール・デュルケーム(1858〜1917)の唱えた3つの社会状況が挙げられています。

まず、アノミーとは社会が豊かになればなるほど、人間はも何でも手に入れることが出来ると思い込ませてしまう状況です。人間とは、自分に限界が課せられていないと感じると、つまり欲望が異常肥大すると、あらゆる制限をますます耐えがたいと思うようになり、豊かさはそのような危険性をはらんでいるわけです。19世紀における産業革命以来、経済の発展はあらゆる規制から解き放つことで進められてきて、あらゆる制限から解き放たれると、人間は耐えられなくなって自殺してしまうというわけです。

これは、ドン・クラーイの扉が開いて、年金が全て解決、ひろしは重役と次々と良い事ずくめです。しかし、その一方でマナー違反で死刑という事態(日本マナー法施行)にもなります。ここで、ルートヴィヒ君の言う、集団本位主義が登場します。集団本位主義は、あまりにも規制が強すぎると、規制が弱すぎるのと同様、これまた自殺率を高めるわけです。

しかし、ここではアノミーという解釈をしていますが、これは例えばしんちゃんが風間君の頬をつねっても咎められず、実質上は何をやっても許されると思われるからです。日本マナー法はあくまでもお飾りにすぎないのでは、とルートヴィヒ君は解釈したわけで、実際は何をやっても許される、規制の弱い社会に野原一家が放り込まれたわけです。まあ、非日常の世界ですね。

アノミーが自己本位主義と同等であるというものですが、自己本位主義とは統合が弱くなることで、共通の良識が弱まり、自殺率が高まることです。おや、アノミーと似ていませんか。デュルケームはアノミーと自己本位主義は違うということで、主著の「自殺論」で区別を試みていますが、ルートヴィヒ君の挙げているジョンソン・バークレーなる社会学者が、アノミーと自己本位主義は同一のもので、区別されるべきものではないと、デュルケームの誤りを否定したわけです。この流れは、アメリカの社会学においては常識でもあるのですが、まあ一般的な日本の社会ではあまり知られていませんね(知っていたからといって、どうなんだというのもありますし)。

さて、自己本位主義ですが、主に社会のメンバー間における相互作用の欠如、共通の良識の欠如、社会統制の欠如という3つの特徴があり、相互作用の欠如はひろしが突然重役昇進を言い渡される事が言えます。共通の良識とは男性専用車両になりますかね、ひろしはこの車両に喜んでいるかが疑問ですし、社会統制の欠如とは、まあ前述したような、何をやっても許されるというものです。風間君の頬をつねっても咎められないというものですね。


オットー 「うーん、それにしてもこの作品はどうも明確な区別が見られないのではとも思うね。演出がジェットコースターというより、ジャンプというか、飛んで渡るというものではないかな。前作の『ケツだけ爆弾』や『アミーゴ』のアンチテーゼとして位置づけられるとも考えられるが」

前作の「ケツだけ爆弾」や前々作の「踊れアミーゴ」は、時間の流れがわりとゆったりしていた部分があります。「ケツだけ爆弾」は沖縄から帰った夕方から、シロとの逃避行の夜までをかなりじっくり描き、「踊れアミーゴ」はクライマックスにラストの一日(アミーゴスズキと遭遇する日)を、劇中の半分以上を使っていたはずです。その一方で、「金矛の勇者」は劇中では何日も過ぎていき、時間の流れが非常にスピーディーなのです。そこから、あたかも前作や前々作のアンチテーゼとさえ受け取れるのではないかと思えるわけです。


ヴィルヘルム 「しかしまあ、まさかあの正体がねえ」
カール 「彼らの人格は、まさに本作品がシリアス一辺倒にならないという意志表示の象徴だね。そして、この作品における作風こそが、まさに10数年ぶりの原点回帰ときたものだ」


ヴィルヘルム君の言う「あの正体」とは、クロが実は銀の矛ギンギンだった事を指します。カール君の発言ですが、キンキンとギンギンはどことなくユーモラスな雰囲気を漂わせ、ダークとしんちゃんの決戦というのに、あまり緊張感は感じなかったのですね。つまり、このキンキンとギンギンが「金矛の勇者」をシリアス一辺倒にしないという役割を追っているわけです。そして、この作風が「ヘンダーランド」(マカオとジョマとのヘンダー城での戦い)や「暗黒タマタマ」(ヘクソンとの戦いでの「時間が流れ過ぎ」のシーンや、ジャークの賞味期限が切れていることなど)のような、ある種の劇しんにおける原点回帰があるのではと思うわけです。まあ、「ヤキニクロード」なんかでもそうでしたから、必ずしも「原点回帰」と言えるものでもないかも分かりませんが。


ヘルムート 「それにしても、『ハイグレ魔王』、『雲黒斎』、『ヘンダーランド』、『ヤキニクロード』、『3分ポッキリ』そしてアンチテーゼとも言えるはずの『アミーゴ』といった、これらの作品の・・・うーん、オマージュか、パロディか、有効利用か、劣化コピーか、何と言うべきか」
ヨーゼフ 「オマージュだろ」
オットー 「いや、パロディだ」
ヴィルヘルム 「有効利用でしょう」
カール 「劣化コピーでは」
オットー 「いいか、よく聞け!そもそもだな・・・」
ヨーゼフ 「俺が言いたいのはそうじゃない!同一のシリーズの作品において劣化コピーというのは・・・」
カール 「そういうものは普遍的に存在するものだ。つまりだ・・」
ヴィルヘルム 「違う!第一、観客はそんなもんでしらけるわけがない。しんのすけのケツだけ星人と同様なのであって・・・」
フェルディナント 「グリルなかちかちソーセージー!ビンビン〜!」
カール 「ケツだけ星人は作品そのものにおいて古典的なギャグの地位を築いている。しかし本作品の・・・」
ヴィルヘルム 「そうじゃないって言ってるだろ!古典とかメジャーとかをどう線引きするかと考えること自体が無意味であって、だからこそ・・・」


オマージュか、パロディか、有効利用か、劣化コピーか、なんと言うべきかは解釈にもよるでしょうか、要するに過去の作品と類似するシーンが多く出てきた事を言っているわけです。

「ハイグレ魔王」・・・駄菓子屋に向こう側の世界の鍵がある。これは、ドン・クラーイとつなぐ扉がレンタルビデオ屋という、日常のところに非日常への扉が隠されている事が暗示されているわけです。

「雲黒斎」・・・前述したように、吹雪丸が当初は男であると思われていたら、実は女であり、同様に一見すると男のマタが実は女である事を指します。ちなみに、この二人の年齢は15歳と、奇しくも一致しています。ただ、マタって15歳にはちょっと見えない・・・。12、3歳くらいじゃないかと思ったりします。

「ヘンダーランド」・・・おそらく、内容そのものはヘンダーランドに一番似ているのではないでしょうか。アセ・ダク・ダークがマカオとジョマ、マック・ラ・クラスノケがクレイ・G・マッド、プリリン・アンコックがチョキリーヌ・ベスタで、金の矛と銀の盾と銅の鐸がスゲーナ・スゴイデスのトランプ。これらの道具が味方のキャラに奪われるというのも同じで、さらにしんちゃんはおねいさん(プリリンとチョキリーヌ)に騙されて、味方のキャラ(マタとトッペマ)に手痛い仕打ちをしてしまうのも同じです(トッペマはしんちゃんに直接やられたわけではありませんが)。

「ヤキニクロード」・・・言うまでもないかもしれませんが、「リアル顔」のシーンです。しかし、どう贔屓目に見てもニ番煎じに変わりはないわけで…。まあ、劇場ではウケていましたが。

「3分ポッキリ」・・・日常と非日常の入れ替わりが激しい事を指します。つまり、コロコロと日常と非日常のシーンが繰り返されるわけです。ただし、「3分ポッキリ」は前半から非日常が明確であったのに対し、「金矛の勇者」は不明確で、徐々に非日常が入りこんでくるというスタイルを採っているという違いはあります。

「踊れアミーゴ」・・・「金矛の勇者」の非日常は、風間君はしんちゃんに頬をつねられても笑っているように、世の中は野原一家以外、みんな笑顔で暮らしているという世界です。これは、「踊れアミーゴ」で、本物と入れ替わったコンニャクローンが本物よりも上機嫌であるのと似ているというわけです。


ハインリヒ 「うらー!野郎ども!クソみてえな事ばっかぬかしやがやって!オレさまの背中の刺青が泣きやがるぜ!よく見やがれってんでい!このイタチの刺青こそが前科16犯を背負うオトコのシンボルってやつよ!」

分身たちのリーダー格であるハリンリヒ氏の人格が突如豹変しますが・・・。ちなみに、劇しんの16犯、じゃなくて16作目の「金矛の勇者」で、マックが飼っているチタイという動物もイタチでしたね。てなわけで、ここで私は彼らの感想を強制終了させました。


さて、登場した分身たちの名前は以下の通りです。

・ハインリヒ (Heinrich)
・フェルディナント (Ferdinant)
・ルートヴィヒ (Ludwig)
・フェレンツ (Ferenc)
・オットー (Otto)
・ヨーゼフ (Josef)
・ヘルムート (Helmut)
・ヴェルヘルム (Wilhelm)
・カール (Karl)

実は、彼らの名前はドイツ人の男性名なのですね。カッコは、ドイツ語での綴りです。日本で言えば、タロウ、マサオ、ヒロシといった感じです。しかし、しかしです。実はこの中に、異端児が混じっているのです。詳しく言えば、ドイツ人の男性名ではない奴です。

それは誰かと言うと、ネタばらしをやっていたフェレンツ君です。フェレンツという名前、実はドイツ人ではなくハンガリー人の男性名なのです。このフェレンツのドイツ名はフランツ(Franz)となります。まあ、他と違うからと言って、別にどうだというわけでもありませんが。


さて、「最後の試写会!金矛な93分!」を「クレヨンしんちゃん研究所日記」に掲載したところ、サイトの掲示板に、ある方から以下のような書き込みがなされていました。

「チョルスさんの記事を読んでると金矛の勇者がすごく楽しみになりました。今までクレシン映画はDVDだけで我慢してきた私ですが、今作は実際に映画館まで行ってみることになりそうです。
ところでひとつ不安なことがあるんですけど・・。
ブロガーたちの感想を目にしてると前半がグダグダだとか、不評の多さが目立ちました・・・。今作は好みが強く分かれる映画になりそうなですね。」

(ブロガーたちの意見についてはともかく)こういう書き込みを見ると、私はサイトを運営していて良かったと心から思います。ですから、私はサイトの運営を続けるわけです。クレヨンしんちゃん研究所のアクセス数はいわゆる人気サイトや人気ブログの足元にも及ばない微々たるもので、金にもならないわけです。しかし、たとえ金にならなくても、どんなに忙しくなろうとも、趣味として、自己満足でも良いから続けていきたいと思う活動でもあります。


※管理人注:本文における時間の表記は、日記の記事よりも2分ほど進めていますが、これは当日持参した私の腕時計が2分ほど進んでいた事が後に判明したためです。





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