嵐を呼ぶジャングル





前作の「温泉わくわく」においても、劇しんの興行収入を立て直す事ができず、そしてさらに言うならば、大人向けを大いに意識した原監督の前3作(「暗黒タマタマ」、「ブタのヒズメ」、「温泉わくわく」)は、公開されるたびに興行収入が落ちていました。

それを考えれば、もはや原監督にしろ、製作スタッフにしろ、自分達の趣味に走るのは極めて危険な賭けとなっていた事は想像に難くありません。そのため、「温泉わくわく」の次回作は「安全なやり方」、つまり自分達の趣味より子供向けを重視するようになったわけです。

そしれそれは、後の「オトナ帝国」、「戦国大合戦」が明らかに原監督の趣味に走ったものである事を踏まえれば、「ジャングル」は一種のモラトリアムとみなす事が出来ます。

つまり、劇しんの興行収入を大きく立て直したのは「オトナ帝国」ですが、それを製作するに当たって、「温泉わくわく」の後ではあまりにも危険であった、そこで一旦、子供向け重視に転じて、いわば堅実な方法で少しでも興行収入を立て直す事を優先せざるを得なかったわけです。そしてそれは、再び趣味に走る作品(この場合は「オトナ帝国」)を製作するには必要不可欠であった事だとも言えます。

さて、この「ジャングル」は、原監督の作品の中で最も、そして唯一の子供向けを重視した作品であります。もっとも、この作品には製作スタッフの遊び心や大人向けの、言い換えれば懐かしさの要素が数多く登場しており(SML映画社、「吠えよドラゴン」、「小野田さ〜ん、横井さ〜ん(、戦争終わったぞ)」、小林幸子等)、これらは「オトナ帝国」を予感させもしますが、ストーリーにはあまり関連性の無いもので、いわば飾りとしての存在でしかありません。

そして、前3作とは異なり、子供向けを重視したこの作品ではキャラクターもまた、これまでの作品と大きく異なります。まず、敵はパラダイスキングという、南の島に王として君臨しており、その配下は無数の猿、つまり敵側の人物関係が極めて簡略化されています。

これまでの劇しんは、本郷監督の作品も含めて敵には幹部に当たる人物がいましたが、この作品では、初めてそれが登場しなくなっています。つまり、人間関係の複雑さを極力排し、その分一人の親玉を重視するようにしたのです。

実際、パラダイスキングは、原監督の作品の中では極めて異例なことに、肉体的なカリスマ性を持ち、これまでの悪の親玉であった玉王ナカムレ、マウス、アカマミレとは全くタイプが異なります。そして、前作の「温泉わくわく」で影を潜めた敵の絶対悪という性質も、この作品では復活しています(彼がなぜ悪へ走ったのか、アカマミレ同様、劇中で語られてはいるものの、それが必ずしも絶対悪を崩すことになるわけではない)。そしてまた、人間関係が簡略化されたことによって、善と悪の対立がはっきりと浮き彫りになっています。

ただし、絶対悪とは言っても、本郷監督の作品のように、最後は非業な最期を遂げるわけではなく、アクション仮面としんちゃんによって助けられます。そして、パラダイスキングが完全に負けを悟ると、最後にはおとなしく降参することになります。ここからでも、たとえ絶対悪であっても、あくまでも常人レベルの域を出ないという、原監督の作品の特徴が表れています。

しかし一方で、パラダイスキングは、前述したように、本郷監督時代のハイグレ魔王やマカオとジョマのような肉体的なカリスマ性もあり、これらを踏まえれば、劇しんの登場する敵の要素を最も多く兼ね備えているとも言えるのです。

さらに、この作品ではオカマが劇しんで初めて登場しなくなっています。爆発!温泉わくわく大決戦で、原作の臼井氏が「クレヨンしんちゃんにオカマは欠かせない」、「オカマを入れるのは僕(臼井氏)のサインだ」と語ったことがあるそうだと述べましたが、オカマが登場しない「ジャングル」は、「温泉わくわく」の時よりもさらに、臼井氏から離反、または独立していっているものを示していると考えられます。

また、人間関係の簡略化というのは、味方の側ではさらに顕著に起こっており、オリジナルのキャラクターや組織は登場してません。「ハイグレ魔王」の時とは異なり、アクション仮面も(郷剛太郎がきっぱり言っているように)あくまで架空の存在とされ、それを演じる郷剛太郎がそのオリジナルキャラの代わりを果たすことになります。

さて、原監督の前3作、そして後の2作とも大きく異なる「ジャングル」ですが、それでも劇しんの一つの作品である限り、他の作品からの影響も見られます。

まず、プレタイトルシーンは、アクション仮面の新作映画(「南海ミレニアムウォーズ」)の予告と、その船上試写会の募集の知らせが流れますが、アクション仮面がプレタイトルに登場するのは「ハイグレ魔王」以来です。ただし、「ハイグレ魔王」の時は、番組の撮影中に事故が起こり、アクションストーンを奪われるという非日常の出来事から始まっています。

一方、ジャングルでは、あくまでテレビの中の出来事であり、テレビアニメ版にも十分取り上げられ得る日常の出来事という点で、両者は全く性質の異なるものです。

爆発!温泉わくわく大決戦でも取り上げたように、「ブタのヒヅメ」までにおいては、プレタイトルはその作品のオリジナルキャラクターのみが中心的存在でした。しかし、「ジャングル」ではパラレルワールドでない、テレビの中とは言え現実世界のアクション仮面、つまり郷剛太郎が中心的存在となっています。そして、テレビを観たしんちゃんが、みさえに船上試写会の申込みをねだるのですが、これはつまり、しんちゃんもストーリーを動かしているのであって、プレタイトルの重要な役割を果たしていると言えます。

このような「現象」は「温泉わくわく」から始まっていたわけですが、他にも同作品から引きずっている要素として、春日部の住人達(埼玉紅さそり隊、カスカベ書店の店長と店員の中村等)を大勢登場させている事も挙げられます。そして、それにもう少し視野を広げて見れば、前3作に登場した臼井氏も、イラストのみの登場を果たしており、こちらはその前3作の名残りを引きずっていると言えます。。

さて、「ジャングル」では、大人は皆連れ去られ、子供(と犬)だけが取り残されることになります。そして、かすかべ防衛隊のジャングルでの冒険が、この作品の前半を占めているのですが、この冒険の間、捕らえられている大人達がどうなっているのかははっきりとは分かりません。

大人達が登場するシーンも、ひろしが血――ではなく赤インク(このシーンは、ヘンダーランドの大冒険でも述べた、子供向けを意識した作品の中で、大人向けの要素が入りこんだ結果、歪んだ形で表れたものの一種でもある)――を流し、みさえと郷剛太郎も何者かの命令で動くサル達に虐待されているらしい事ぐらいしか、この時点では分かりません。

同じ冒険とは言っても、例えば「ブタのヒヅメ」ような、子供達(かすかべ防衛隊)の(ヒマラヤでの)冒険が、大人達(お色気、マウス、筋肉、みさえ、ひろし等)のシーンが同時進行であるのに比べれば、、話の進みが簡略化されており、子供の観客に、物語の内容を出来るだけ分かりやすく伝えようとする意思が見られます。

もっとも、同時進行自体はこの「ジャングル」の冒険の方にもあり、それがひまわりとシロも冒険に出るシーンです。しかし、このシーンでは、(赤ん坊と犬ということもあり)台詞らしき台詞は無く、こちらも子供に、物語を極力分かりやすく伝えようとしていると考えられます。

そして、このような子供向けを重視した作品だからこそ、台詞の捉え方にも違いが生じるようになっていると思われます。その最もたるが「良い子は真似しないでね」という台詞です。ボーちゃんがライターの火をかざした時に、しんちゃんが言ったものですが、これは子供向けを多分に意識した「ジャングル」だからこそ、観客に向かって発しているように感じ取ることが出来ます。

つまり、この台詞は「ジャングル」のための台詞であると言えるのであり、もし、この台詞が「温泉わくわく」や「オトナ帝国」で発せられたならば、そのようには感じ取れず、単にしんちゃんの独り言のギャグとしか受け取れないのではないかと思われます。

さて、この台詞の直後に、ひまわりとシロに再会します。ひまわりはしんちゃんと再会した嬉しさから泣き出し、またしんちゃんらかすかべ防衛隊に自分のミルクを差し出すのですが、このシーンでは、しんちゃんとひまわりの家族愛(狭義に言えば兄妹愛)を見出すことが出来ますが、この作品は家族愛というテーマに関してはあまり重視していません。

これは、子供向けを意識しているからか、家族愛よりも勧善懲悪を強調しているためで、そのため、この他に家族愛を描いているのは、しんちゃんとひまわりがサルに捕まりそうになり、ひまわりが泣き出し、しんちゃんがあやすシーンくらいです。しかし、このような家族愛がサルたちにも伝わったために、しんちゃんとひまわりだけはサルに捕われずにすみます。

そして、捕われなかったしんちゃん達は、パラダイスキングの船に潜入、大人達を救出し、パラダイスキングと戦うアクション仮面の助太刀もすることになります。つまり、この後のパラダイスキングの敗北は、しんちゃんとひまわりの家族愛に起因しているのです。このように見れば、「ジャングル」においても家族愛を強調しているかのようにも解釈は可能ではありますが、少なくとも、表面上はそうではありません。

なお、パラダイスキングのもうひとつの敗因に、ケツだけ歩きが挙げられます。というのは、サル達はケツだけ歩きに怯えるのですが、それが特別な力や能力を持ったわけではなく、単に外見が妙であるに過ぎない事は、人間であればすぐに分かるところですが、サル達には分からなかったわけです。

つまり、パラダイスキングの敗因をさらに言うならば、彼の忠実な部下にはサルしかいなかったわけです。こういう事から、パラダイスキングの「サルの出来ることには限界があってな」という台詞は、まさに正論であったと言えます。

さて、「ジャングル」はこれまでの劇しんの「法則」を初めて打ち破った作品でもあります。雲黒斎の野望で、しんちゃんをいかに傍観者に回らせないで、主人公としての活躍をさせるかで、二つの試みがなされるようになると述べましたが、その一つは、主人公を追い詰めるという手法でした。

しかし、それは監督が原氏になってからは使われなくなり、そのため原監督の前3作では、しんちゃんは作品の全般において傍観者へ回りがちになっていました。そして、「ジャングル」において、もう一つの試みが初めてなされるようになりました。その試みとは、主人公を一大勢力そのものにするというものです。

これまでの劇しんは、ある二大勢力の争いの中に、しんちゃんたちが巻き込まれてしまうというプロットでしたが、「ジャングル」には、前述したように、人間関係の簡略化で、しんちゃんの味方になるキャラクター(吹雪丸やトッペマなど)や組織(SMLや温泉Gメンなど)が登場しません。一応、人物にアクション仮面(郷剛太郎)がいると言えなくもないですが、彼は冒頭でその他の大人達と共に、敵側に捕まってしまったため、しんちゃんら子供達(かすかべ防衛隊)でどうにかしなければならなくなります。

これは、主人公を追い詰める手法に似ていなくもないですが、「雲黒斎」や「ヘンダーランド」の時と比べて、しんちゃんの持つ態度は明らかに異なっています。「雲黒斎」では、吹雪丸が倒れしまったために、いやいやながらであって、「ヘンダーランド」に至っては「弱虫宣言」をしてしまうほどでした。

一方、「ジャングル」での、しんちゃんの「待つのも飽きたし、探しに行きますか?」という台詞には、前述したような心情を読み取ることは出来ず、それどころか余裕を見出す事すら可能です。これは、ひまわりが生まれたため、兄として成長したという面もあると思われますが、しんちゃんが一大勢力そのものの、一員としてのキャラクターに置き換わった結果であると言えます。

もっとも、ジャングルの冒険では、誰が隊長になるかの言い争いに、かすかべ防衛隊の他の4人に押され気味であったりと、防衛隊の中に埋没してしまったりもしています。また、船の中でのアクション仮面とパラダイスキングの戦いでは、助太刀をするものの傍観者に回ってしまっている感がありますが、ラストの空中戦では、しんちゃんとアクション仮面の立場は逆転しています。

つまり、しんちゃんがパラダイスキングとの戦いに挑み、アクション仮面はしんちゃんを(本人の意志ではないが、主にタマタマで)助太刀したりするものの、しんちゃんをパラダイスキングのジャイロプレーンへ運ぶ役、また傍観者としてしか「機能」していません。つまり最後は、この作品の真の主人公は野原しんのすけである事が確認されることになるわけです。

この他にも「ジャングル」は、強い味方のおねいさんも、オカマも登場せず、それまでの慣例が捨て去られ、一方タイトルにかつてのしんちゃんを指した「嵐を呼ぶ(園児)」というフレーズを使用していたりと、、別の新しい要素も取り入れられており、劇しん史上における一つの転換期に位置する作品であると言えます。

そして、「ジャングル」で捨てられ、また新しく築かれたこれら様々な要素は、「オトナ帝国」に引き継がれていく事になるのです。





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