嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲





前作「嵐を呼ぶジャングル」で、子供向けに転じるというモラトリアムを経て、「オトナ帝国」で改めて大人向けを多大に意識するようになります。同作品は、同じく大人向けを意識した「温泉わくわく」とは対照的に興行収入が劇しんの中で「ハイグレ魔王」、「ブリブリ王国」の全盛期の2作品に次いで第3位(2005年現在)という好成績を打ち立て、かつクレしんの社会的評価を大きく高めもしました。

この背景には、「オトナ帝国」がオトナの観客の心をがっちり掴んだ事があるのですが、その要因として普遍性があったことが挙げられます。「温泉わくわく」で取り上げられているゴジラや温泉、怪獣映画などは、特定の観客にしか共感できない要素であったのに対し、「オトナ帝国」で取り上げられているのはノルタルジー全般です。

大人とは、(よほど不幸な境遇でなかった限り)昔の事を懐かしく感じ、その懐かしさとは普通良いものだと感じられるものですが、特に昔(1970年頃)の日本は高度経済成長の時代で、今より遥かに夢や希望があり、当時を一層良かったものであったと感じるのは必然であると言え、そしてそれは当時を知る日本人の多くが共有している事でもあります。

つまり、ゴジラや温泉などと比べても、大人の観客に非常に受け入れられやすかったわけです。そして、その当時の日本を象徴する出来事が大阪万博であり、それは「オトナ帝国」の冒頭でも強調されて描かれています。ここからでも、「オトナ帝国」が当時へのノスタルジーを強調している事が分かります。

さて、その「オトナ帝国」がその他の劇しんの作品の中で、大きく異なる点は、いきなり非日常に突入している事です。
これまでの劇しんは、「ヘンダーランド」を除けば、まず普段の日常から始まり、「異物」が入り込んで、しんちゃんたちは非日常の世界の巻き込まれ、その非日常での出来事を完全に解決しないと、日常の世界に戻ってくることはない、つまり、日常→非日常→日常の順で物語が展開していました。そして、本編がまず日常からスタートするという点では、「ヘンダーランド」も同様です。

「オトナ帝国」の場合、本編がスタートした時、しんちゃんたちが大阪万博の会場にいて、しかも万博防衛隊として怪獣退治に向かうという、「非日常」スタートしているかのようです。ただし、これは単なる特殊撮影である事が判明し、やはり日常の出来事に過ぎないと思われますが、実はそうではありません。

この時、野原一家は20世紀博というテーマパークに来ており、そこでもっぱら楽しんでいるのはひろしとみさえで、他の家族も親だけが楽しんでおり、子供は退屈しているというシーンもあります。そして、大人達のその楽しみ方が、日常の世界ではありえないくらい異常である事は、風間君が指摘したとおりです(「いくら子供の頃が懐かしいからって、あのハマり方は普通じゃないよ」)。

つまり、本編が開始した時、既に野原一家を始め日常の世界に生きる人々が、非日常の世界に引きずり込まれていっているわけです。つまり、この作品はいきなり非日常から始まっており、非日常→日常という、これまでの作品に例を見ない展開となっているのです。

さて、本編開始早々、非日常の世界に引きずり込まれていっている点で、さらに恐ろしいのは、その非日常を大人達が自らの意志で受け入れている事です。

これまでの劇しんでは、日常に生きる人々(狭義に言えば野原一家やかすかべ防衛隊)が非日常を自分達の意志で受け入れるという事はなく、受け入れるのはあくまで不本意である事が「前提」となっていました。しかし、「オトナ帝国」では、大人達が本作品における非日常をポジティブに捉え(例えばそれは「春日部もいいカンジになってきたな」というひろしの台詞からも表れている)、そして出来るだけ深く入っていこうとします。

大人達が非日常に入ろうとするのは、本作品のそれが居心地の良い世界であり、その根底には「懐かしさ」が存在するからに他なりません。そして、その「懐かしさ」を武器に、大人達を自分の世界に引きずり込もうとするのがケンなのです。

大人達が非日常を進んで受け入れる点から、ケンは今までの敵とはあまりに異なっているのが分かります。彼は決して絶対悪ではなく、それについてはアカマミレも同様ですが、 アカマミレとの最大の相違点は、大人達がケンに同意しているという事です。

アカマミレの場合、絶対悪ではないにせよ、その動機は独りよがりなもので、劇中でも彼に共感したのは草津隊長のみ(「長嶋はそういう選手だったー!」)であったのに対し、ケンに共感したのは劇中の大勢の大人達、そして現実世界の大人達もまた、ケンに共感していたと言えます(だから「オトナ帝国」はヒットした)。

つまり、ケンとは、1970年頃の高度経済成長期を体験している世代が持つ、当時への憧れと現代に対する失望を具現化したキャラクターなのあり、これまでの悪役とは根本から異なっているのです。そして、大人達は午後8時の20世紀博からの「お知らせ」で、いとも簡単に非日常を完全に受け入れ、つまり洗脳されてしまい、さらに翌日にはテレビ局、ラジオ局、なども乗っ取られ、日常への侵略は非常にたやすく行われていきます。

つまり、ケンの率いるイエスタディ・ワンス・モアはやすやすと日本を乗っ取っていくのですが、この乗っ取りは、まさにケンの「諸君の高度経済成長的頑張りを期待している」という台詞の通り、終戦の貧困から資本主義国ではアメリカについで第2位の経済大国へ急成長を遂げた当時(1970年ごろ)の日本を髣髴とさせもします。

劇しんで、このように日本が敵に乗っ取られた、ないしは乗っ取られかけた例として「ハイグレ魔王」と「雲黒斎」が挙げられますが、両作品に比べて、「オトナ帝国」はより現実味があり、しかも敵が使う武器が「懐かしさ」であることが、その現実味に拍車をかけています。

さて、大人達が洗脳されたというのは、精神が子供に還ってしまった事であり(朝からお菓子をむさぼるひろしとみさえ、町中で遊ぶ「大人達」からも明白)、大人としての自覚は消失しています。そして、頼るべき大人達がいなくなってしまったしんちゃんら子供達は、自分達で何とかするしかありません。

最初は自分達が生きていくために行動を起こしますが、やがてそれは大人達との戦いになります。この戦いで、ひろしとみさえは、しんちゃんやひまわりのことを完全に忘れ、もはや親ではなく敵の一兵卒に過ぎず、家族の絆は崩壊している事が分かります。

その一方、この戦い(デパートからの逃走からカーチェイスに至るまで)にはクレしんらしいギャグが多く盛り込まれ、特にカーチェイスのシーンには緊迫感は感じられません。しかし、戦っている相手というのはひろしやみさえなど、昨日まで自分たちを守っていた大人達であることから、やはり悲劇である事に変わりはなく、この戦いには、表面では喜劇が、内面では悲劇が存在しているのです。

そして、この場合の喜劇はクレヨンしんちゃんであることからの必然であり、悲劇は「オトナ帝国」からの必然であると言えます。さて、この戦いまでの作品のプロットは、前作の「ジャングル」類似しています。

「ジャングル」でも、大人達が敵に(こちらは不本意であるが)連れ去られ、子供達(かすかべ防衛隊)は自分達で何とかしなければならなくなり、行動を起こしますが、敵の配下のサルに(しんちゃんとひまわり以外)捕まってしまいます。

「オトナ帝国」の場合も、子供達(こちらは春日部中の)は捕まっていきます。ただし、捕まえるのは、「ジャングル」ではサルに当たるイエスタディ・ワンス・モアの戦闘員だけでなく、彼らに洗脳された大人達も加わっています。

つまり、「ジャングル」の時は、単に大人達(特に郷剛太郎)を助ければ、何とかなるかもしれないという希望があったのですが、「オトナ帝国」ではその大人達の記憶を取り戻す方法を考えねばならず、またアクション仮面(郷剛太郎)といった強力な味方もいないという事も、「ジャングル」、そしてこれまでの作品と大きく異なる点です。

カーチェイス後のシーンにおける、「ジャングル」と「オトナ帝国」の最大の違いは、前者ではかすかべ防衛隊のうち4人(風間君、ネネちゃん、マサオ君、ボーちゃん)とシロが捕まってしまいますが、後者ではシロはしんちゃん、ひまわりと共に逃げ延びるという点です。

つまり、飼い犬と言えどシロも野原一家の一員である事がこの違いから分かります。「ジャングル」は家族愛よりむしろ正義を強調しているため、シロの存在はそれほど重視されていませんが、家族愛を強調している「オトナ帝国」では、それは重視されているのです。

そして、カーチェイス後は家族の力が試されることになります。まず、ひろしとみさえの記憶を取り戻す方法ですが、ひろしの靴の匂いをかがせることで、それは「懐かしい」という昔の匂いに対し、ダイレクトに対抗できる手段であると言えます。

そして、靴の匂いをかいだひろしは、自分の子供から大人へ、そして現在に至るまでの回想をし、記憶と取り戻していくのですが、このシーンが本作品屈指の名シーンだと評される背景には、家族愛を描いている事のほかに、このシーンがまさに現実の大人の観客の、子供から大人へ成長していくまでの回想をを写し取った、つまりある種のイデアとしての効果をもたらしているとも考えられます。

さて、記憶の取り戻したひろしの周りにあったもの、それは大阪万博のハリボテであったことが判明しますつまり、靴の匂いをかぐまでの、大阪万博の風景はあくまでひろしの精神世界でのものであり、現実ではない「虚」によって成り立っていた世界だったのです。

そして、このような「虚」を成り立たせていたのが懐かしい匂いなのです。この懐かしい匂いによって、ケンの住む「街」は「リアルな過去の匂いに包まれた」のであり、そのにおいは極めて居心地の良い「虚」を築き上げ、「実」を覆い隠すほどのものであったのです。

さて、ケンは匂いメカによって全国中にその「虚」を作り上げる匂いを散布しようとし、それは靴の匂いでも戻れないほど強力なものだと、ケンは言います。

それを阻止するために、野原一家は立ち上がりますが、ひろしとみさえは「街」の匂いに何度も引きずり込まれそうになります。「何だってここはこんなに懐かしいんだ」とひろしは自分の懐かしい思いを必死に押し殺しますが、ひろしとみさえにとって、「オトナ帝国」における本当の敵は、実は「匂い」であり(ケンやチャコはもちろん、大人達はこの「懐かしい」匂いで「悪役」になっている)、またそれは自分自身でもあったという解釈も可能です。

タワーを登るシーンでは、野原一家が次々と「脱落」していきます。これは、迫りくる戦闘員を止めるためで、ひろし、みさえ(とひまわり)、そしてシロという順番であり、最後にしんちゃんが残されますが、このシーンも「ジャングル」の最後の空中戦と類似しています。

「ジャングル」でも、アクション仮面としんちゃんがパラダイスキングに挑みますが、アクション仮面はジャイロプレーンにしがみついた後、何の攻撃も加えることができず、しんちゃんだけが戦いに挑むことになります。

「オトナ帝国」で、このアクション仮面に該当するのが、ひろし、みさえ、ひまわり、シロであり、しんちゃんだけが匂いの散布の阻止に向かうことになり、階段を必死に駆け上がりますが、この階段で決着がついた事が、その後分かります。

つまり、「街」の住人たちが未来を取り戻そうとする野原一家の姿を見て、過去に生きる意志を失ったわけです。街の住人たちの意志を変えたのは、家族愛によって可能であったという事です。

そして、その家族愛を生み出したのが、未来を(家族と共に)生きるという意志であり、その意志を持続させるためという点から見れば、(ひろしやみさえだけでない)野原一家全員にとって、その最大の敵は、やはり自分達自身であったと考えられます。また、「温泉わくわく」も家族愛によって勝利しますが、「オトナ帝国」はより抽象的で現実的なものとなっています。

ケンは、その野原一家との戦いの前に、「お前たちが本気で21世紀を生きたいなら行動しろ。未来を手に入れて見せろ」と呼びかけますが、まさにそれが実現したわけです。

ケンが野原一家に対して、戦いを呼びかけたこの台詞にどのような意味が込められていたのかと言うと、ケンは未来を生きることはありえないという絶対の自信があったのか、あるいは未来を生きようとする自分とは対極する者達が、それに対してどれほどの意志を持っているのかに興味を持ったのか、おそらくは両方だったと言えます。

そして、ケンとその愛人と思しいチャコの20世紀を生き続けるという自分達の絶対の信念は、「街」の住人たちに受け入れられなくなり、それは匂いメカの力を失ったことで、誰からも受け入れられなくなった事を意味します。

そして、ケンとチャコに残された道は、21世紀を生きるか、生きることそのものを放棄する、つまり死ぬかという二つになります。二人は当初、21世紀に対する絶対的な嫌悪感から、死を選択することになります。

しかし、死の寸前の、しんちゃんからの「ズルいゾ!」という言葉と、キジバトによる妨害によって断念します。しんちゃんのこの台詞は、本人は単に「バンバンジージャンプ」を自分にもやらせろという意味で言ったのであり、キジバトは自分の巣や家族が襲われると認識したに過ぎないのですが、ケンとチャコにしてみれば、言うまでもなく全く別の意味に解釈されます。

しんちゃんの台詞は、現実の未来を生きることから逃れて、死んでしまうとは卑怯以外の何者でもない、お前たちも未来を直視し、生きろ、そしてキジバトはそのメッセージを具体的に行動で示したものです。ここで、チャコは「死にたくない」と、死ぬことを拒否しますが、これは二人が死という選択肢も無くなった、つまり、二人にはもはや現実の未来を生きる以外に選択肢を失った事を象徴する台詞です。

そして、同時に二人の(特にチャコの)人間性、つまり人間らしさを取り戻したシーンでもあり、ひろしにパンツを見られた時(「やっと人らしい顔になったな、いいじゃん」とひろしに言われる)と同質のものだと言えます。

人間らしさを取り戻したからこそ、未来へ生きていこうという気にもなれたわけで、その過程において、ケンの言う通り(「また、家族に邪魔された」)、家族(野原一家と、キジバトの親子)によって二度それを諭されているのです。

一回目で、20世紀を生き続けるという選択肢は消え、二回目では死の選択が消え、現実の醜い未来を生きる事を余儀なくされるのです。

さて、以上のようにケンとチャコは、自分達が望む事に対し、二度家族に妨害されたのですが、ここからでもこの作品が、いかに家族愛を強調しているかが分かります。無論、この作品がそうである事自体は(「家族がいる幸せをアンタたちにも分けてあげたいくらいだぜ」というひろしの台詞からでも)、火を見るより明らかですが、それはより内面的な側面においてもなされています。

つまり、家族だからこそ、ケンとチャコに未来を生きていく気にさせられ、そして、たとえそれがどんなに醜いものであれ、家族がいればそれを乗り越えられるという事を意味します。

一度は崩壊した野原一家ですが、再び修復されたことでもそれは明らかで(前半の家族の崩壊は、後半の家族愛と対比させられ、これによって一層家族愛が強調されていると解釈ができる)、そのような家族愛の力が、(前述したように)ケンとチャコに価値転換をさせることができたわけです。

また、このような形で味方に屈した悪役は、これまでの作品では例を見ず(これまでの悪役は、程度の差はあれ、直接力でねじ伏せられていた)、ここからでもケンとチャコがこれまでの悪役と根本的に異なることが分かります。

過去は良かった、もう一度戻りたい。このような思いは、居心地は良いかもしれないが、それは現実逃避でもあり、たとえ未来がどれほど醜いものであれ、そこに向かって生きていかねばならない。なぜなら大人達は子供達に、未来への道しるべを作っていかねばならないからだ。「オトナ帝国」は、大人達へそのように語りかけているかのように思われます。。

しかし、それは過去そのものを否定するという意味ではありません。ただ、過去を否定しないという事は、過去にしがみつき続けることではなく、過去の日本人が持っていた夢や希望を、たとえ現実の未来が醜いものであろうと持ち続けていくべきであるという事だと言えます。

つまり、「オトナ帝国」は過去への肯定であり、未来への肯定でもあるのです。また、現実の未来が醜くても、家族愛があれば、どんなことでも乗り越えられるという事も、この作品は語りかけています。未来を生きる事を頑なに拒んでいたケンとチャコを諭したのも、家族愛であったことは前述した通りです。

「オトナ帝国」は、他の劇しんに比べて、極めて地味な作品です。SF的な要素はおろか、現実的な武器(銃や爆弾など)すらも登場しません。登場する「武器」と言えば、銀玉鉄砲などの玩具類や爆竹等でしかなく、派手な肉体的アクションもそれほど登場しているとは言えません。

また、「ジャングル」以上に、人間関係の複雑さを排しています。敵には幹部に当たる人物がおらず、味方に至ってはオリジナルのキャラクターはおろか、強い人物(おねいさんも含む)さえも登場しません(前述したように、「ジャングル」には強い人物として、アクション仮面(郷剛太郎)がいた)。

しかし、逆に言えば、「オトナ帝国」はこのような面からでは子供向けとも言えるわけで(つまり子供の観客にも受け入れられやすい)、また同作品は、ギャグと感動がバランスよく織りまぜられていて、大人の観客を惹きつける(大人の観客に受け入れられやすい)ノスタルジー、そして未来を力強く生きるという事が作品のテーマであり、何よりも前作に引き続き、しんちゃんが傍観者に回ることは少なく、あくまで主人公としての大活躍を果たしていることなどから、(管理人の私を含め)この作品が好きだというファンを多く持つ傑作になりえたのです。





前のページ  映画編  トップページ