伝説を呼ぶ ブリブリ3分ポッキリ大進撃


劇中で登場する怪獣一覧





水島監督の降板によって、劇しんのスタッフは大きな入れ替わりが生じることになりました。そして、監督の座にムトウユージ氏が就き、水島氏は(シンエイ動画の退社もあって)完全にスタッフから離れます。原恵一氏も、絵コンテの一部を担当するだけにとどまっています。

「暗黒タマタマ」から「カスカベボーイズ」までの、監督、脚本、絵コンテを原氏と水島氏が担当していた「原・水島体制」とでも言うべき時代が終わりを迎え、それはまさに劇しんにおける一つの節目を迎えたと言えます。そして、ムトウ監督らによって新しくなった劇しんの第13作目「3分ポッキリ」は、ある面ではこれまでに無い要素が見られ、またある面では過去の劇しんの慣例を保守しているという面も見られます。

まず、作品の正式なタイトルが「伝説を呼ぶ ブリブリ3分ポッキリ大進撃」であり、これまでの「嵐を呼ぶ」というフレーズが使用されていません。

元々縁起担ぎとして使われてきたこのフレーズがタイトルに使用されている間、「オトナ帝国」や「戦国大合戦」による劇しんの社会的評価の高まりがあり、もはや縁起担ぎをする必要が無くなったという、製作スタッフの自身が垣間見られます(なお、「3分ポッキリ」は冒頭の東宝マークで既に効果音(怪獣の足音)が使用されているが、これは第7作目(「クレしんパラダイス」)以来のことであり、「嵐を呼ぶ」のついたタイトルの全ての作品には、東宝マークではまだ効果音もBGMも無い。逆に「嵐を呼ぶ」がタイトルに無い作品には全て、東宝マークの時点でBGMや効果音がある)。

さて、その東宝マークで、怪獣の足音の効果音から予想出来るように、怪獣(シリマルダシ)が街(しかも春日部)を襲うシーンから始まります。これは、春日部駅や野原一家までもが踏み潰されてしまうという、あまりにも突拍子な展開になっており、いきなり非日常に突入してしまっているように見えます。しかし、これはしんちゃんの夢である事が判明します。

そして、一旦目を覚ましたしんちゃんは再び眠りに就き、今度はアクション仮面の夢を見ます。アクション仮面と「正義のベッド」に眠っているところから夢が始まるのですが、この「正義のベッド」はラブホテルのそれを思わせるような造りで、どことなくわいせつな雰囲気を漂わせます。

これは、しんちゃんのアクション仮面に対する思い入れが夢の中で歪んだ形となって表われたものだと解釈が出来ます(「3分ポッキリ」は子供向けを多分に意識した作品だと思われるが、この「正義のベッド」はその子供向けを意識した作品の中で、大人向けの要素が入りこんだ結果、歪んだ形で表れたのだものだと考えられる)。

このシーンの後、怪人が大量に現われ、その中にはかつてテレビアニメや劇場版に登場した敵(メケメケZやゾンビリビー等)も含まれていますが、このシーンは製作スタッフの趣味が非常によく表われていると言えます。そして、アクション仮面はこの大量の怪人達をアクションビームで一瞬で倒します。

まさに、怪獣が春日部を荒らしまわる先の夢と同様、夢の中であるから何でもありという、「夢の自由さ」を存分に生かした展開です。そして、この二つの夢が「3分ポッキリ」の主要なプレタイトルのシーンなのですが、これらは本編のストーリーとは直接の関係はありません。

劇しんのプレタイトルのシーンは、これまでならストーリーと直接の関係のある内容であったので、これは例の無い事です。ただし、ストーリーに直接関係は無いものの、そこには「3分ポッキリ」がいかなる作品であるのか、その伏線を伝えていると言えます。

最初の怪獣の夢は、怪獣が3分後の未来に現れ、これを倒さないと世界が滅んでしまうという本編の内容を、そしてアクション仮面の夢は「正義とは何か」という、本編の怪獣退治を通じてしんちゃんが模索していく問いを示しています。

つまり、最初の夢は本作品における具体概念を、次の夢は抽象概念をそれぞれ示しているわけです。また、この二つの夢間の、しんちゃんが目を覚ましている時、シリマルダシの人形を投げ、それが掛け軸に当たるシーンもまた、伏線であると言えます。即ち、この掛け軸が未来との出入り口になり、ミライマンがここからやって来て、シリマリダシの人形に乗り移るという展開のです。

この後、水島監督の時代には捨てられていた、オープニング前のタイトル表示、オープニングのテーマがその時のテレビアニメの主題歌(当時は「ユルユルでDE-O!」)が使用されるといった慣例が復活しています。ここから、劇しんを正道に戻そうとするという側面が見られます。

オープニング後、みさえ、ひろし、しんちゃんが目を覚ましてから、みさえがしんちゃんを幼稚園に送るまでの日常の姿が描かれていますが、その間のシーンは、効果音はあるものの、台詞は無く、まるで早送りをしたような展開となっています。

この日常のシーン(みさえが起きてからしんちゃんを幼稚園まで送るまで)は時間がちょうど3分となっている、つまり朝やるべき事を3分で済ましているわけで、これもまた3分以内に怪獣を倒すという、この後の展開の伏線になっていると言えます。

さて、しんちゃんを送った後、家に帰ったみさえはぐったりと疲れてしまい(倒れた自転車を立て直そうともせず、ひまわりにシリマルダシの人形を投げつけられても怒ろうとしない)、白髪に悩んだりもします。毎日繰り返される日常に、生きがいを見出すことが出来ず、これからも無意味に続くと思われる日常に対する絶望をみさえは感じていると思われます。

そして、その疲れからか、朝食としてのカップメンにお湯を注いだのに、それを放っておいて、ひまわりと一緒に寝てしまいます。その時、掛け軸からミライマンが出現しますが、ミライマンはカップメンの匂いに誘われ、シリマルダシの人形に乗り移り、食べてしまいます。そして、そのためにシステムの座標が固定し、世界を救うための怪獣退治という大役を、野原一家が背負うことになってしまいます。

もし、みさえがカップメンを食べていたら、野原一家は怪獣退治をすることは無かったと考えられます。これは、カップメンをお湯に入れてから3分を大きく超過してしまった、つまり3分経ってやるべきはずだった事をみさえはやらず、眠ってしまったために、このような一種の「ペナルティ」のようなものが、作品全体からかけられてしまったという解釈が可能です。

この怪獣退治は、本作品における非日常の部分に当たり、まさに野原一家(最初はみさえのみ)は非日常に巻き込まれてしまったわけですが、その怪獣退治を経験したみさえは、非常に上機嫌になり、まさにぐったりとしていた時とは対照的です(幼稚園から帰って来たしんちゃんを、ミニスカートをはいて出迎えた時、既に怪獣退治をしていたと思われる)。

そして、その怪獣退治の事が観客に判明するのは クリラという怪獣が出現した時ですが、それを退治したのがみさえだと、つまりプリティミサエスの正体がみさえだと判明するのは、その次のラドンおんせんという怪獣が出現した時です(みさえとプリティミサエスの声が違っている、つまり声優が違うのは、無論プリティミサエスの正体がクリラの時点では分からないようにするためである。ただし、ひろしが彼女をかわいこちゃんと言って、顔をわずかに赤らめるなど、その事をほのめかすシーンはある)。

さて、プリティミサエス(みさえ)はラドンおんせんに破れ、今度はひろしが変身し、戦うことになりますが、その時のひろしのコスチュームは、みさえと違って、あまりにも不恰好なものです(無論、この姿はギャグである)。その姿に対してミライマンは「ご自分の想像力が足りませんでしたね」と言いますが、この台詞は「温泉わくわく」でのしんちゃんの「イメージがヒンコンなんだゾ」という台詞とリンクします。

胸と額についている初心者マークはこの時のひろしが、怪獣退治ではまだ初心者である事の象徴だという解釈が出来、ラドンおんせんを倒すのにも、初心者の如く苦戦しますが、何とか倒します。

そして、ひろしの第2回戦となるギュー・ドンとの戦いでは、変身した時のコスチュームや倒し方がより洗練されたものになり、この時のひろしには最初の戸惑いは無く、非常に生き生きとしています。

そのギュー・ドンとの戦いの前に、ひろしが会社で部長に怒鳴られ、家に帰って「あーあ、部長め」と言うシーンがありますが、ギュー・ドンとの戦いの時とは全く対照的な姿で、無論これは、ミライマンが現れる前のぐったりとしたみさえと、現れた後に怪獣を倒したと思われるみさえ(ミニスカートでしんちゃんを出迎える)が対照的であると同じです。

そして、その後もみさえ、ひろしにしんちゃんとひまわりもが加わって怪獣退治を進んで行う、つまり非日常を自ら進んで受け入れているわけです。

これまでの劇しんでは、「オトナ帝国」の大人達以外、非日常を野原一家やかすかべ防衛隊といった日常の世界に生きる人々が自ら進んで受け入れることはありえませんでした。なぜ受け入れなかったかといえば、非日常の世界では時として命の危険が伴い、つらく、苦しいもので日常へと脱するのにも大きな苦労を要していたからです。

しかし、「3分ポッキリ」の非日常である怪獣退治は、確かに場合によっては苦労を要する事もありますが、怪獣を倒すのにカタルシスを感じたり、人々からヒーローとして称賛されたり、非常に楽しいものになっています。そして、楽しいからこそ、本作品の非日常のシーンには緊迫したシリアスなシーンは見られず、非常なポジティブなものとして描かれています。

また、ひまわりが2960を倒した時、なぜかひまわりが好みのイケメンばかりに称賛されたり、みさえが戦うことになるサバシオに追われているのが、なぜかこれまた(ひまわりと同じく)みさえが好みのイケメンばかりの集団(サバシオはイケメンが大嫌いらしい)であったり、ストーリーとしての論理性より、 内容を面白くする方を優先するご都合主義的な傾向が顕著であり、また怪獣の名前も、ファ・イヤーンやラビビーン関根などギャグとなっているものも少なくありません。

つまり、「3分ポッキリ」はストーリーや人物描写よりむしろ、ギャグや(数々の怪獣を出現させるという)ムトウ監督らの趣味を優先していると言え、そういう意味で、「ヤキニクロード」に近い作品であります。

さて、これらの怪獣を野原一家が次々と倒していくシーンの中には、色々な興味深い点を見出すことが出来ます。
この怪獣退治の中で、最も多彩な変身姿を見せてくれたのはみさえですが、例えばその中のみさえXという変身は、カマデという怪獣と戦う際に初めて行います。

このみさえXは掃除機を使い、カマデを封じ込めますが、怪獣退治に掃除機とはミスマッチな印象を与えます。これは、カマデと戦う前まで、みさえは掃除機をかけていたからで、つまりつい先ほどまで送っていた日常の生活を未だ引きずっていたからこそ、掃除機と言う場違いなものを使うことになったと言えるのです。

日常を引きずっていると言えば、ひろしにも同じ事が言え、しんちゃんが初めて変身し、ババンバ・バンという怪獣を倒した後、ひろしはその時自分たちがいる未来の事は全て無しになるというのを良いことに、テレビカメラに向かって「部長のバカヤロー!」と叫びます。

日常では、ひろしは(ギュー・ドンと戦った日の昼間のように)部長に叱られてばかりの日々で、そのストレスを怪獣退治で発散させていたと思われますが、この時はしんちゃんが怪獣を退治してしまったために、そのストレスのはけ口を失ってしまったのです。そこで、テレビカメラに向かって部長の悪口を叫ぶという行為を代わりにしたのですが、これはひろしが非日常において、日常を引きずっていることを明らかにしているシーンであると言えます。

さて、この時のしんちゃんは素っ裸ですが、これはつい先ほどまでみさえ、ひまわりと一緒に風呂に入っていたからです。そして、そのしんちゃんとひまわりと一緒に入浴しているみさえの姿は、その直前のカマデと戦うみさえXとの対比が可能となります。

そして、その対比により、普段のみさえと変身時のみさえ(みさえX)のギャップの大きさが明らかとなってきます。みさえXは女としての肉体美を強調した姿で、妖艶な雰囲気を漂わせています。一方、その後の普段のみさえは、この時は入浴シーンであるにもかかわらず、女としての肉体的な魅力は存在せず、(しんちゃんに(風呂から)出たらすぐパジャマに着がえるよう言うところからも)ただ母親という名のオブジェとしての機能しか果たしていません。このような、みさえがひろしやしんちゃんに比べて、変身した姿と普段の姿のギャップが大きいのは、それだけ彼女が普段の自分に対して抱く肉体的なコンプレックスが大きいからだと言えます。

さて、前述したように、怪獣の名前にはギャグとなっているものが多く、ギター侍こと怪獣波多陽区という怪獣もそれに当たります。ただし、ギター侍の場合、名前よりはむしろ姿や戦いの方がよりおかしなものとなっています。そして、その台詞の中では、クレヨンしんちゃんという作品自体をパロディ化しています。これは、クレしんがそれだけ(パロディ化されるに値するほど)人口に膾炙しているのだという製作スタッフの自身が感じられるシーンです。

さて、このギター侍を倒した後のシーンで、日常の生活が乱れている事が分かり、それはひろしが有給休暇をとったことで、さらに加速化していきます(ピースくんと戦うために変身する直前のみさえが、「忙しくってインスタント食品ばっか・・・」と言うところからも、既に日常の生活が乱れ始めている事が伺える)。

そして、休暇をとったひろしばかりでなく、みさえまでもが家事を放り出し、二人はただ怪獣が出現するのを、寝転んで待つ以外何もしなくなります。しんちゃんは、ひまわりの面倒を見たり、幼稚園にひまわりを連れて行ったりと、みさえやひろしに比べ、日常の生活を送る上での行動規範をまだ持っています。

つまり、ひろしやみさえの方がしんちゃんより精神年齢が低下しているのであり(本編の前半部分で、みさえがミニスカート姿でしんちゃんを出迎えた後、シリマルダシの人形をツンツンとするシーン等が既に精神年齢の低下を暗示している)、これは「オトナ帝国」で二人が懐かしさで子供に戻ってしまったのと同じです。

別の見方をすれば、これは(ひろしやみさえが親として、大人としてやるべき事をやらないことから)家族が崩壊してしまっていると言えます。なお、ひろしが休暇をとったと言い、怪獣退治を巡ってみさえ達と喧嘩するところから家族の崩壊が始まっていると言えなくもないですが、この時点では(喧嘩はテレビアニメ版でも普段やっていることから)まだ完全に崩壊しているわけではありません。

さて、しんちゃんがひまわりを連れて幼稚園へ行った時、職員室のテレビでデパートが崩壊したニュースを目の当たりにしますが、劇中でも語られている通り、これはひろしとみさえが3分で怪獣を倒しきれなかった事に起因しています。

遂には、3分後の未来だけでなく、現代の世界にも東京タワーの上空からマユが現れます。つまり、現代の日常を暮らす世界が非日常に侵食され始め、真の危機が訪れようとしているわけです。そして、「3分ポッキリ」の「真」の非日常は、実はここから始まるのだという解釈も可能となってきます。

本作品は日常→非日常→日常という(非日常での出来事を完全に解決しないと、日常の世界に戻ってくることはない)、劇しんにおける通常の展開とは異なり、日常→非日常→日常→非日常→日常・・・と、日常と非日常が何度も繰り返されています。ここで言う日常とは普段の生活であり、非日常は怪獣退治に当たりますが、このような構造は「ヘンダーランド」以来となります。

ただし、「3分ポッキリ」は「ヘンダーランド」以上に何度も繰り返されており、そういう意味では劇しん史上最大の異色的な展開と言えなくもないです。

さらに、今まで(クリラからポチタマタロミケまでの戦い)の非日常は、「オトナ帝国」の前半でのひろしとみさえ同様、野原一家全員が進んで受け入れていました。そして、観客にとってもそれまでの非日常のシーンには緊迫感も感じられず、今までの劇しんには例の無い非日常だと言えます。

しかし、怪獣が次第に強くなってくると、ひろしやみさえは非日常を受け入れるのを拒むようになり、「従来通り」の非日常へと変化していきます。つまり、「3分ポッキリ」における非日常の変化は、2つに分けることが可能です。

即ち、今までの劇しんには無かった「偽」としての非日常と、これまで通りのあり方を踏襲している「真」としての非日常とにです。さて、ひろしとみさえは、前述したように、(「真」としての)非日常を、つまり怪獣と戦うのを拒んでしまいます(嫌になったから拒否するという点からも、この二人が子供と化している事が分かる)が、しんちゃんは自らの倫理の規範に従い(「強いヒトは弱いヒトを助けてあげるもんだから!」)、怪獣退治に向かいます。

そして、ひろしとみさえもこのしんちゃんの台詞に心打たれ、後を追います。この時二人はミライマンから「さすがヒーロー」と礼を言われますが、ひろし(とみさえ)はそれをきっぱり拒否します。つまり、そもそもなぜ自分達は怪獣と戦ってきたのか、それは自分達が世界を守るヒーローとしてではなく、子供たちに未来を生かしてやりたい一人の大人としてである事を認識したのです。そして、野原一家は「野原一家ファイヤー!」とお馴染みの掛け声を出しますが、これはまさに家族が完全に復活した事を象徴するシーンであると言えます。

さて、ひろしとみさえが目前に立ちはだかるゴロドロという怪獣に立ち向かいますが、全くかなわず、自衛隊の攻撃までもがゴロドロにかわされてしまいます。そして、しんちゃんがゴロドロに戦いを挑む決意をし、ひろしとみさえに「オラ、未来はとーちゃんとかーちゃんとひまとシロとみんなで生きたいゾ」と、自らの意思を表明します。これは、「オトナ帝国」でしんちゃんがチャコに「オラ、とーちゃんやかーちゃんやひまわりやシロともっと一緒にいたいから」と言う台詞と同類のものです。

そして、「3分ポッキリ」の方のシーンの場合、しんちゃんの先にあるのはひろしやみさえもかなわなかった強大な怪獣との戦いで、勝てる見込みはあるとは言えず、見方を変えれば絶望しか残されていない状況であり、「オトナ帝国」の方のシーンの場合もまた、その先に待ち受けるのは何の希望も見出せない絶望としての21世紀でしかないという事からも、両シーンの状況は非常に似通っていると言えます。そして、両シーン共に、家族や家族に対する思いがあれば、そのような絶望な状況もきっと乗り越えられるという、同じ希望も描いていると思われます。

さて、そのゴロドロとの戦いで、他の怪獣達がアクション仮面、カンタムロボ、ぶりぶりざえもんに乗り移り、また野原一家を全員巨大化させるといった手助けをします。みさえは「この格好が一番あたしたちらしいわ」と言いますが、それまで数多くの変身と戦い、そして葛藤を経て、ヒーローではなく、子供達に未来を生かしてあげようとする大人だという認識に至り、その自分に最もふさわしい姿を見出した事を示す台詞です。

そして、このゴロドロを倒した後、最後の怪獣が現れますが、それはしんちゃんとそっくりな姿で登場します。このニセしんのすけマンが怪獣、つまり敵の中で唯一知性を、言い換えれば理性を持っていますが、理性を持った敵にしては、登場するのがあまりにも遅すぎると言わざるを得ません。

これまでの劇しんにも、「ジャングル」の猿のように理性を持たない敵が登場した事はありましたが、敵の大部分は理性を持っており、さらにそれは冒頭か中盤で既に登場を果たしています。「3分ポッキリ」における唯一理性のある敵が、終盤になってようやく登場という展開は、今までに例がありません。

また、このニセしんのすけマンは、ひろしの靴下をはめたカンタムパンチで、あっさりとやられてしまいます。それは怪獣の弱点が臭い(つまり悪臭)であるが、この前のゴロドロとの戦いで判明したからなのですが、ここに「3分ポッキリ」における構造上の欠陥が露わになります。

つまり、ニセしんのすけマンがあっさりやられてしまったことから、「3分ポッキリ」における事実上の最大の敵のはゴロドロだという事になり、親玉より部下の方が強いという図式になっているのです。これは、「暗黒タマタマ」で玉王ナカムレよりヘクソンの方が、「ブタのヒヅメ」でマウスよりママの方が強いのと同じですが、これらの作品と「3分ポッキリ」の最大の違いは、前者はクライマックスの前にその事が既に判明しているのに対し、後者の「3分ポッキリ」は終盤になってようやく判明するという点であり、これこそが「3分ポッキリ」の欠陥たらしめている所以であります。

しかも、ゴロドロが出現していた時、ミライマンは「あの後、マユからどんな怪獣が出てくるか、想像も出来ません」と言っており、ここで観客はゴロドロ以上の敵の出現に期待を抱かせられますが、その期待を裏切ってしまうことになります。

結局、ニセしんのすけマンとの戦いは単なる余興としてしか機能しておらず、最後にニセしんのすけマンがみさえのグリグリ攻撃を受けて、「最強の上にはまだ最強がいたゾー!」と叫びますが、これは製作スタッフが本作品をストーリー上の論理よりもギャグを優先する事を明らかにした象徴的な台詞だと言えます。

また、みさえはグリグリ攻撃をする時、あんたなんかよりしんのすけの方がカッコいいんだからと叫びますが、これは本作品が家族を強調している事を明らかにした台詞です。
また、「3分ポッキリ」は正義についても強調おり、前にも触れたように、しんちゃんは冒頭のアクション仮面の夢から、正義とは何かを模索することになっていたと言えます。

現代の世界に戻る時、しんちゃんはきれいなおねいさんをお守りするという正義を見出しますが、何かを守る心こそが正義なのである事を、「3分ポッキリ」は伝えているように思われます。前作「カスカベボーイズ」とは対照的に、かすかべ防衛隊の活躍が皆無だったのは、「3分ポッキリ」が家族と正義という二つのテーマを、友情よりも優先させる事を選んだ結果であると言えます。

さて、ミライマンは未来へ帰って行き、野原一家も日常の生活に戻りますが、戻った直後、ひろしは遅刻すると慌て、みさえもゴミを走って出しに行くシーンが映し出されます。これは家族が復活し、ひろしとみさえが大人に戻ったという事を日常の生活において具体的に示しているものです。

しんちゃんは最後に、ヒ−ローはいつも遅れて来るものなのだと言いますが、この台詞には、「3分ポッキリ」における主人公のあり方を示していると言えます。

劇しんは「ジャングル」以降(「戦国大合戦」は除く)、野原一家やかすかべ防衛隊が作品における一大勢力そのものとなり、その中心にしんちゃんが主人公として活躍するという構造になっていました。しかし、「3分ポッキリ」では、しんちゃんよりむしろ、みさえやひろしばかりが活躍している、つまり一大勢力の隅に押しやられてしまっている傾向が、特に前半では顕著でした。

しかし、いざゴロドロとの、つまり最強の敵との戦いの際には、しんちゃんは自ら進んで立ち向かいます。つまり、いざクライマックスにおいて、ヒーローとしての大きな活躍は見せており、この終盤に際して大活躍をするという展開は、前述した、しんちゃんのヒ−ローはいつも遅れて来るものなのだという台詞にそっくり当てはまり、彼が主人公である事を再確認させるものです。

ムトウ監督によって、新しいスタートを切った劇しんは、今後も様々な姿を見せつつ、続いていくことになるでしょう。まんが映画としては、稀に見るほどの長寿の作品として。




劇中で登場する怪獣一覧
@ クリラ
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P ニセしんのすけマン




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