変わりゆくクレヨンしんちゃん


38〜40巻





またずれ荘、そして武蔵野剣太の剣道シリーズと経てきた後も、クレヨンしんちゃんは常に変化し続け、一定の状態を保つということはありえなくなっています。そして、単行本にして40巻にも達した同作品にしてみれば、それは継続していくための必然であるとも言えます。

この頃のクレしんの大きな特徴のひとつに、感動や教訓を強調した話が格段に増加しているという事が挙げられます。そして、そのような話は人物描写がより深くなされるのを促しているとも言え、クレしんが継続していくために、新しい登場人物を出していくだけでなく、従来のキャラクターの内面をより深く描く事を意味します。

現実の人間が様々な感情など、色々な側面を持っているという事を踏まえれば、このような傾向はむしろ現実的なものになっているという事も言えますが、その表し方はやや誇張されており、また非日常の番外編で、それがしばしば見られることから、人物描写に重点が置かれるのは、むしろ非日常を促すという一見矛盾した現象を引き起こしているのだと言えます。

具体的にいえば、「空飛ぶフートン」、「半殺し屋 シンちゃん」、「宇宙からの植物 X」、「北与野博士の大発明! ハヤスギルンDS」、日常の話では、よしなが先生の出産、埼玉紅さそり隊に風間君が入会を希望する話などが挙げられます。

そして、それに伴ってか、しんちゃんが泣き顔を見せる機会も目に見えて増加していくことになります。つまり、しんちゃんの人間的な弱さの面が強調されてもいると言えます。

これは、前述したように、感動を売りとする内容の話が乱発されている傾向があることを示し、初期の頃とは明らかにクレしんの質が異なっている事が分かります。初期の頃と根本的に異なっている事は、例えばよしなが先生の出産の話からでも分かります。

9巻でおケイの、16巻でみさえの出産の話が収録されていますが、おケイとみさえの場合、病院で行われたのに対し、よしなが先生の場合は自宅出産(しかも野原家)という点が大きな違いです。この変化は、(自宅出産があまり行われなくなった現状を考慮すれば)日常の話の非日常化を促す現象であるとも言えます。

そして、おケイとみさえの場合、「本格的」な出産の過程で、おケイやみさえの出産以外でのやり取りは描かれていません。しかし、よしながせんせいの場合、あまりの痛さに泣き出し、それに対し大屋主代が「しっかりせい!!あんた母親になるんじゃろが」とビンタするというやり取りが描かれています。これは、クレしんがおケイ(9巻)やみさえ(16巻)の頃に比べて、感動や教訓を強調しようとする傾向が強まっている事を示しています。

また、それは39巻の「宇宙からの植物 X」で一層露骨になされていることが分かります。感動や教訓を強調するという話は、大抵ハッピーエンドが約束されていました。しかし、「宇宙からの植物 X」は、野原家に関して言えばハッピーエンドですが、この後で某国での紛争シーンが描かれており、球根が再び芽を出す場面で終わっているという、極めてブラックなラストで締めくくられています。

これは、人々が互いに憎しみ合う愚かさ訴えかけたものである事は、容易に想像がつきますが、もはやギャグマンガとしての体裁は一切拭い去られ、政治的な風刺漫画と化してしまっている事を示す象徴的な場面だと言えます。

また、40巻には、風間君が母親と喧嘩し、不良になるために埼玉紅さそり隊の入会を希望する話があります。そこで、風間君はふかづめ竜子に親を殴れるかと詰問され、殴れると答えて(親には感謝しているから手は出さないという理由から)入会を断られる場面があります。

紅さそり隊は不良を自称してはいるものの、それなりの行動規範を持っている事は、それ以前でも明らかですが、それを再確認かつ強調しようという意図が見られます。こういった感動や教訓を露骨に示す場面が数多く描かれるようになった背景には、クレしんが教育に悪いという批判に応えようとする意思が存在しているかと思われますが、いずれにせよクレしんが大きく変化した事を示している言えます。

他に、ヌパン4世の話では、ヌパンが依頼主の言う事に逆らうようになってきています。37巻の「盗まれた記憶」では、依頼主が恐ろしい兵器を造らせないために、40巻の「奇跡のスイートテン温泉」では、温泉の恵みを貧しい人々に分けてやろうとするためにですが、これはヌパンが機械的に任務を遂行することよりも、人道的な方を優先せよという、一種の教訓を示していると思われます。

また、ヌパンの話は、非日常の番外編が初期の頃と違い、善悪が曖昧となっている事を示してもいます。これは人物描写が複雑なものになっており、前述したように、現実の人間が色々な側面を事を示しており、非日常の話が現実化している例の一つです。

感動や教訓を売りとする話が、人物描写が深くなされるようになった事は既に前述しましたが、そうでなくとも、また本来のギャグを基調とした話においても、人物描写に関して同様の現象が見られます。

例えば、40巻でせましの恋愛話が描かれています。24巻に初登場した時は、単に心の狭い男としてしか描かれていませんでしたが、40巻での話は彼の人間的な弱さを表しており、せましという人物の別な側面が描かれています。

他に、39巻でヨシリンがそれまで勤めていた会社をリストラされ(この時の落ち込むヨシリンの姿はギャグとして描かれている。つまり、悲劇と喜劇はコインの表裏の関係の如く、隣り合わせになる場合がある事を示している)、ひろしの会社に再就職し、40巻においてはひろしと同じ部署の営業にまわされる話が収録されています。この先、ひろしとヨシリンの絡みの話が描かれる事が予想され、ヨシリンの人物描写がさらに深くなされると思われます。

また、この頃のシロは大きな変化を見せ、その人物像(厳密に言えば人物ではないが)は色々な側面を持つようになります。シロは元々、非常に従順な性格であり、飼い主の野原家に対して逆らう事はほとんどありませんでした。

ところが、36巻でシロがシャワーを巡ってしんちゃんを振り回す話が登場し、39巻では下痢の薬を飲もうとせず、飼い主(みさえとしんちゃん)に反抗する場面が描かれています。これも、シロに対する描写がより複雑化していった事を意味しています。

さて、クレしんは読みきり漫画ではあるものの、一つのテーマが複数の話で展開されるというストーリー漫画めいた傾向がかなり以前から見られましたが、この頃もまた例外ではありません。

その代表的なものが、よしなが先生の産休の代理として、熱繰椎造先生がひまわり組の担任を勤めますが、その椎造先生が幼稚園児達と打ち解けていくまでの過程です。これが複数の話にまたがって展開していくことになります。

この椎造先生の登場の意義の一つに、ひまわり組とバラ組の勝負の絶対的な価値観が崩れた事が挙げられます。

40巻に、サッカー大会でひまわり組がバラ組に完敗する話が収録されていますが、これまで原作において、ひまわり組とバラ組の勝負で、勝敗がはっきりと決まる話は描かれてきませんでした。勝敗はあやふやになるか、引き分けになるかで、これはどちらの組にしろ、負けるということはあってはならない、さらに言うならば、クラス間でのはっきりとした差別感を持たせないようにする配慮があったと考えられます。

しかし、40巻での話では、ひまわり組は負けても椎造先生の暑苦しさ(情熱)で、悔しさをはねのけた、つまりクラス間での差別感は、椎造先生によって埋め合わされたと言っても良く、負ける事は絶対にあってはならない事ではなくなっているのです。

ただし、これはテレビアニメを意識したものであるという解釈も出来ます。テレビアニメでは、ひまわり組対ばら組で、勝ち負けが決まる話は何本かあり(例えば、単行本の5巻のサッカー大会の話は、原作では最後まで描かれていないが、テレビアニメ(「サッカー大会だゾ」(1993年3月22日放送))ではPKでひまわり組が勝っている)、このような原作とテレビアニメのズレを正そうとしたとも考えられます。

また、同様の事は、40巻で野原一家が銀の介の家へ遊びに行く話にも見られます。原作では、銀の介の家に行く話はこれまで一度も無く、その一方、テレビアニメでは何度もあることから、こちらについても原作がテレビアニメに合わせようとした可能性があると考えられます。

また、この頃のクレしんは、大きく変わっていったことで、話の形式自体にも様々なバリエーションが加わっています。かつてはひまわりが主人公の「プッチプチひまわり」があり(現在も健在)、38巻からは過去のクレしんを問題にしたクイズ(「クレしんわりとむずかしクイズ〜」)が、39巻からは4コマ漫画(「クレ4コマしんちゃん」)が取り入れられています。

4コマ漫画自体は2〜4巻にもにも収録されていますが、こちらはカラーページの埋め合わせ(おまけ)として掲載されていただけなのに対し、39巻以降のは確固とした「本編」の一つであるため、これは初期の頃への回帰とは言えません。

しかし、この頃の話の中にも回帰と思しいものがあり、みさえが38巻で「美女怪人ビューティーアークジョ」に、40巻で「ニキータ」に扮し、しんちゃんと遊ぶ話がそうです。最後は、みさえは自らの醜態を近所中にさらしてしまうのですが、これは、どぎついギャグが多かった初期の頃にしばしば見られた、、「救いようのない」ラストを迎える話であり、これらが初期への回帰を促す話だと言えなくもないです。

しかし、初期の頃への回帰が見られても、もはやクレしんは変わりすぎてしまったとも言うべきでしょう。それは、非日常の番外編が増加した事もありますが、日常の話も非日常化が進行しており(非日常の話の日常かも起こっている)、その極致が38巻の雪女と雪ん子の話です。これは完全にオカルトであり、科学的な説明はつけようがありません。つまり、クレしんでも唯一のはっきりした超常現象であり、「完璧」な非日常を示しています。

また、ここまでいかなくとも、例えば39巻でみさえ(とひまわり)としんちゃんがおケイのマンションに行く話がありますが、おケイの息子のひとしが以前に比べて成長していることがはっきり分かります。

キャラクターの年齢は取らないのが原則であるはずのクレしんにおいて、これは特異な現象であり、非現実的な要素がここで絡んでいるとも言えるのです。

クレヨンしんちゃんは、単行本で40巻を越え、今後いかなる道を進んで行くべきか、それは試行錯誤を経ながら模索していくことになるでしょう。



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