伝説を呼ぶ 踊れ!アミーゴ!





劇しん第13作目「3分ポッキリ」において、同シリーズの監督デビューを果たしたムトウユージ氏は、続く第14作目でも2度目の監督を務めることとなりました。その第14作目、ムトウ監督の2作目「伝説を呼ぶ 踊れ!アミーゴ!」は、これまでの劇しんとは一線を画す、様々な相違点が存在する一方,原点回帰への志向も見られる作品です。

原点回帰の志向で言えば、タイトルの際のかけ声と強いおねいさんさんの登場が挙げられます。プレタイトルのシーンの後、オープニング直前のタイトル表示の際に、声優が作品のタイトルを読み上げるというシチュエーションは、「暗黒タマタマ」まで続いてきましたが、その次の「ブタのヒヅメ」から「3分ポッキリ」まで行なわれなくなっていました。「踊れアミーゴ」において、タイトルコールが復活したのは、劇しんが子供向けであるという意識の表れ、前述したような原点回帰を求めた兆候と見ることが出来ます。

また、「踊れアミーゴ」のオープニング前のシーンでは、しんちゃんは登場しません。これは、「温泉わくわく」以来のことで、この点からも原点回帰への志向が垣間見れます。

そして、子供向けとはあまり関連が無い事ですが、原点回帰としてもう一つ挙げられるのが、本作品ではジャッキー(ジャクリーン・フィーニー)が強いおねいさんが登場している事です。強いおねいさんというキャラクターも、初期の劇しんでは定番と言える存在でしたが、「温泉わくわく」の御生掛と指宿を最後に,登場しなくなっていました。

きれいなおねいさんはその後も登場し続けましたが、「オトナ帝国」のチャコ、「ヤキニクロード」の天城のように悪役であったり、「戦国大合戦」の廉姫、「カスカベボーイズ」のつばきのように味方ではあるが強くはないと、「温泉わくわく」以前とはタイプの異なるおねいさんでした。「踊れアミーゴ」において、「温泉わくわく」以来の強いおねいさんが久しぶりに登場し、またそれによって,作品におけるしんちゃんの主人公としての活躍も必然的に薄れるという、初期の傾向までもが表われていると言えます。

しかし、このような原点回帰の志向の存在を忘れさせてしまうほどの、新しい要素が「踊れアミーゴ」において取りれられています。それがホラーです。劇しんでは、「ヘンダーランド」でもホラーの要素は存在しましたが(しんちゃんを追い詰めるス・ノーマンやみさえとひろしの人形)、あくまでも作品のほんの一部の要素に過ぎませんでした。「踊れアミーゴ」におけるホラー描写は、同作品の主要なテーマの一つというところが、「ヘンダーランド」でのそれとは作品内でのあり方が根本的に異なります。

さて、劇しんでホラーが初めて主要なテーマとして取り上げられている「踊れアミーゴ」は、踏み切りの上を電車が通過するシーンから始まり、続いて酔っ払いや(居酒屋の「うきづか」の前を通る)そうでない素面の男性が出てきます。この冒頭シーンの時点では、まだ非日常に入る前の日常を暗示させるものだと思われますが、続く居酒屋(「うきづか」)の中のシーンでは、既に非日常に突入していると言えます。

このシーンで(後ろ向きではあるが)よしなが先生のそっくりさんが入ってくるのもさることながら、その前にまつざか先生がサンバを踊りだすと、居酒屋の女将さん(?)がコンニャクを差し出し、「コレ食べてもっと頑張んなさい」と言います。この時、カウンターに座っていた男性客達はまつざか先生の踊りに不服であるかのように首を振っています。

まつざか先生の踊りは、自分達にしてみればまだまだ未熟であると言いたげな感じで、実は彼らは既にそっくりさんと入れ替わっている可能性が高い事が、ここで暗示されているのです(調理台にあるおでんで、そっくりさんが好きだとされるコンニャクを多く煮込んでいることも確認出来る)。

つまり、ふたば幼稚園の先生以外、この居酒屋の女将さんや客はほとんどそっくりさんに変わっており、そういう意味では既に冒頭のシーンから、いきなり非日常に突入しており、オープニング後によしなが先生や酢乙女あい(あいちゃん)も既にそっくりさんと入れ替わっている点からも言える事です。

このように、いきなり非日常から始まっている点では、「オトナ帝国」と同じ構造を持つものかと思われますが、前述した最初の踏み切りの上を走る電車の中の乗客や酔っ払いなどは、そっくりさんではないと考えられます。一方、その後居酒屋を出たよしなが先生がそっくりさんに襲われるシーンでは、電車の中の乗客はそっくりさんであると言えます。つまり、「踊れアミーゴ」はいきなり非日常に突入しているわけではなく、日常の描写がごくわずかに示されており、従来通りの日常→非日常→日常というパターンを踏襲しているように思えます。

しかし、この冒頭の時点で、春日部の多くの人々が既にそっくりさんと入れ替わっている事を考慮すると、、実質上は既に非日常に突入しているとも言えます。つまり「踊れアミーゴ」は、名目上は日常から始まっており、実質は非日常から始まっているという、極めて微妙な構造を成していると言えるのです(プレタイトルのシーンは、初期の頃は非日常を表したものが多いが、オープニング後はしばらく純粋な日常を描いている。一方で、本作品は「オトナ帝国」と同様、オープニング後も非日常に突入した状態にある)。

さて、よしなが先生がそっくりさんに襲われ、悲鳴をあげてプレタイトルのシーンが終わります。この悲鳴のシーンは、まさにホラーを描いており、本作品はホラーがテーマであることを「宣言」した象徴的なシーンですが、この直前のニセモノが「バモスダンサール」(ポルトガル語(スペイン語?)で「さあ踊りましょう」)と言う、闇の背景で陽気なセリフと、さらにその直後の(明るい)タイトルコールで、本作品におけるホラーのあり方の一つを表しています。

それは、他にも風間君が「ま・ほー少女もえP」を見ており、その一方で風間ママのそっくりさんが鶏肉を切り裂き、口が裂けて肉を食べるシーン、まつざか先生が園長先生や園児達のそっくりさんに捕まり、陽気なサンバの音楽の中、体が園児達に沈められていくというシーンにも、同様の事が言えます。

これらのホラーのシーンの共通点は、観客を震え上がらせる恐怖のシーン(よしなが先生の悲鳴、口が裂ける風間ママ、体が沈んでいくまつざか先生)と、観客を明るい気持ちにさせてくれるシーン(「バモスダンサール」という言葉そのもの(ただしこの言葉は日本語ではなく、観客の大部分は理解出来ないことから該当シーンとは言いがたい)、タイトルコール、もえP、陽気なサンバの音楽)が併存しているという事です。

このような極端な場面が同時に挿入されているというのは、我々の常識を凌駕しており、そういう意味からこれらはシュールレアリスムを表現しているものと言えます。そもそも、脳天気で明るい野原しんのすけという園児が主人公の、クレヨンしんちゃんという明るい作品において、このような子供向けを逸脱すらしているかのようにも見える、ホラーのシーンを挿入する事自体が、ある意味シュールとも言え、つまりクレヨンしんちゃんそのものがホラーをシュールたらしめている要因とも言えるのです。

一方で、「踊れアミーゴ」にはこのような露骨なものとは全く逆とも言えるタイプのホラーに存在します。よしなが先生のそっくりさんが、園長先生に「ご相談」を持ちかけるシーンで、よしなが先生が窓を閉めると、窓の外は見えなくなり、ガラスが赤く染まります。これは、赤い光包まれたという事が、園長先生は日常の世界と切り離され、そっくりさんによって非日常の世界への入り口に閉じ込められ、その世界へ連れて行かれてしまう事を暗示しています。そして、翌日の幼稚園のシーンで、園長先生がサンバを踊っているらしいシルエットが映し出されています。

観客はここで、何の説明もなく、園長先生がそっくりさんと入れ替わったという事を理解する事が出来るわけです。そして、その後の園長先生のそっくりさんがひまわり組のガラス戸を閉めるシーンでも、再びガラスが赤くなります。ここで、風間君も園長先生と同様、非日常の世界に連れて行かれることを暗示していますが、ここではしんちゃんによって救われることになります。

このような、ガラスの色の変化やシルエットだけでどのような状況にあるかを理解させる手法は、ヒッチコックなどを思い起こさせるもので、(露骨なホラーとは別の意味で)子供向けとは思えないほど(高度な)表現であると言えます。逆に、子供向けであるからこそ、ホラーの描写に制約がかかり、このような描写が生まれた、つまり子供向けという点が、大人向け顔負けの高度なレベルのシーンを生み出したという、ある意味皮肉な結果につながったとも言えなくもないです。

このように表現されるホラーは、風間君が自分の母親がそっくりさんであると疑いつつも、必死で信じようとし、「ママ絶対僕の前から居なくなったりしないでね!」と母親にしがみつくシーンにも存在すると言えます。風間ママは口を裂けて、「もうすぐねトオルちゃんも」と言い、その直後のマンションのシーンは、風間君はもうそっくりさんと入れ替わってしまう事を暗示しています。しかし、この後もしばらくの間、風間君はまだそっくりさんと入れ替わっていません。

この点において、「踊れアミーゴ」のストーリー展開である種の綿密な計算が行なわれている事が分かります。ガラス戸やシルエットなどから、一体どのような状況がそこにあるのかという「法則」を観客に植え付け、その後の同様のシーンの後では全く別の展開を見せるという手法です。

その最もたるが、しんちゃんとそっくりさんと入れ替わっていた事が判明するシーンです。オープニング後の冒頭のシーンで、よしなが先生は極めて陽気に振舞っています。本物のよしなが先生であれば、このときの園長先生と同様の(バスを早く出発させようという)態度をとるということは容易に想像がつきますが、この時のよしなが先生はそれと逆の態度です。さらに幼稚園では、あいちゃんがマサオ君に優しいという全く逆の性格で、後のスーパーでも、みさえのそっくりさんは欲しいお菓子を何でも買ってあげるという、その時の本物には見られなかった優しさを、しんちゃんに見せています。

つまり、そっくりさんの特徴には、本物と逆かそれに近い性格の持ち主であるという事を、先入観として観客に植えつけているのです。しかし、その後の(スーパーの翌日と思われる)早く幼稚園へ行く支度を済ませる朝のシーンでのしんちゃんは本物であり、その夜の普段通りに振舞っているように見える、ひろしと風呂に入っているしんちゃんは、実はそっくりさんであるという展開がなされています。

一度先入観を植え付けられた観客を、一体誰が本物で誰がそっくりさんであるであるのかを惑わせる事になります。観客を惑わすような展開であれば、劇中の登場人物はさらに混乱しかねないことは想像に難くありません。

それを端的に示しているのがマサオ君だと思われ、自分が本物か否かを思い悩むシーンが出てきます(しんちゃんに頭を叩かれ、本物だと指摘される)。これは、周りの人々か次々とそっくりさんと入れ替わっているという、それまでの目の前で起こった出来事が自身のアイデンティティを揺さぶっていると言えます。同様の事はひろしにも言え、彼はアミーゴスズキから、自分がそっくりさんであるという虚偽の指摘をされ、自分の存在に疑いを向けてしまっていると思われる(「あんたは最高傑作だよ!」と言われる)シーンが登場します。

このマサオ君とひろしの例は、人が自分の帰属先を失うと、自分が存在する意義すらも不明瞭になってしまう、つまり人間の精神的な弱さを見事に突いていると言えます。このようなアイデンティティの崩壊とも言える現象は、(本物がそっくりさんと入れ替わるという)シュールな出来事が背景に存在し、安部公房の代表作「壁」の第一部「S・カルマ氏の犯罪」で、自らの名前を失った主人公が、シュールな現象を目の当たりにする展開にも通じると考えられます。

さて、誰が本物で誰がそっくりさんかを見分けるために、様々な手法が作品の中でなされています。最も代表的なのが、サンバのテーマを流す事で、そっくりさんであれば踊りだすわけです。その手法は幼稚園において使用され、しんちゃんらかすかべ防衛隊は、この方法でどうにか難を逃れています。

この他にも、本物かニセモノかは頭に定規が刺さっても平気(川口のそっくりさん)、股間を蹴って痛がらない(ひろしのそっくりさん)、そしてシロが最初に見せたちんちんかいかいなどで分かっています。しんちゃんのそっくりさんは、ちんちんかいかいを知らず、本物は知っているわけですが、このちんちんかいかいはアミーゴスズキのの基地において、本物かそっくりさんを見分ける手段を超越し、家族の団結を示す象徴として、野原一家に使用されています。

本物かそっくりさんかを見分け、家族団結の象徴とも言える、このちんちんかいかいは「オトナ帝国」のひろしの靴の匂いと近い性格を持っています。家族愛を湧き上がらせるという点では、両者は共通しており、「踊れアミーゴ」でも家族愛が描かれている事かここから分かります。

しかし、「踊れアミーゴ」における家族愛、ひいては愛そのものに対する描かれ方は、これまでの劇しんには見られなかったまったく別の性格も持っています。

幼稚園で、よしなが先生達がサンバの音楽で踊り、まつざか先生は園児達を守るために捕まってしまうシーンがありますが、この前に上尾先生も捕まっています。上尾先生の場合、黒磯のそっくりさんに騙されたために捕まったわけです。

その一方で、マサオ君もあいちゃんのそっくりさんに騙されそうになりますが、マサオ君は振り切って逃げる事に成功しています(余談ながら、その時のあいちゃんのそっくりさんは「おい マサオ!あたしの言うことが聞けないって言うの?」と、それまでの丁寧な口調から、本物のあいちゃんがマサオ君に対するそれに近くなっている。これは、そっくりさんが本物をすりかえるという任務(?)を果たすのに、うまく行かなければ凶暴化して遂行しようとする性格を持つ事を示している。この事は、スーパーでのみさえのそっくりさんが、しんちゃんを無理やり2階へ連れて行こうとしていた事からも言える)。

この上尾先生とマサオ君の取った行動の違いは、2人の持つ愛がいかなるものであるかを示しています。上尾先生と黒磯は、お互いが惹かれあっているという、いわば純愛であるのに対し、マサオ君とあいちゃんは、(劇中でネネちゃんが指摘していたように)マサオ君はあいちゃんの「飼い犬」、下僕として振る舞っており、マサオ君の一方的な片想いとその片想いをあいちゃんが利用しているという主従関係であり、いわば歪んだ愛と呼べるものです。

つまり、上尾先生は黒磯と純粋な愛で繋がっていたために、黒磯のそっくりさん対する誘惑を断ち切る事が出来なかったのに対し、マサオ君はあいちゃんと歪んだ愛の繋がりであったために、誘惑に打ち勝てたのです。この事は、風間君と風間ママが(マザコンという指摘があるにせよ)純粋な親子の愛で繋がっていたために、風間君は最後まで母親を信じようとした結果、そっくりさんに捕まってしまった事からもいえます。

つまり、真の愛で結びついていた者はそっくりさんに捕まり、歪んだ(言い換えればニセモノ、つまり「そっくりさん」の)愛で結びついていた者は逃れる事が出来るという、極めて皮肉な結果が描かれているのです。これは、今までの劇しんにおける愛の効用とは全く逆であり、あまりにも不条理なものです。しかし、解釈によっては、このような不条理な展開は、実は道理に適ったものであるとも言えるのです。

上尾先生や風間君の場合、自分達の愛する者(黒磯、風間ママ)は既にそっくりさんに捕われており、自分達も捕われの身となることで、彼らの愛する者の元へ行くことになるという考えも出来るからです。つまり、上尾先生や風間君の取った行動は、心中や愛する者の後を追うという行動を想起させるもので、一種の美学と捉えることが可能です。

「踊れアミーゴ」は、一見すると愛が却って皮肉な結果に働いているかのように見え、実はその裏にはやはり愛と呼ぶに相応しい真理が隠されているわけです。いずれにせよ、愛に対する描かれ方に関しては、今までの劇しんでは例を見ないほど変則的であると言えます。

前述したように、「踊れアミーゴ」はホラーが主要なテーマになっていますが、そのホラーの要素も後半になると段々と薄れ始める気配を見せます。春日部駅でひろしが川口のそっくりさん、そしてコンニャクローンが出現し、それまでのホラーが成立していた要因であるコンニャクローン(この時点では名前はまだ判明していない)が姿を現すことで、ホラーの要素が薄れ始めるわけです。

敵の正体が分からない、不可解さというのが、ホラーを成立させていた要因の一つだと言えます。これは、前半部でボーちゃんがそっくりさんの話をする時、「ヒタ、ヒタ、ヒタ」と言うところではしんちゃんが怯えているのに対し、ボーちゃんがそっくりさんの出現を演じた時には、しんちゃんは怯えている様子ではなくなっている事からも、それを暗示していると言えます。つまり、しんちゃんは得体が知れないこそ怯え、その正体が分かれば怯えなくなるわけです。

さて、ひろしはコンニャクローンに追われながらも、春日部駅から自宅へと到着しますが、この追っかけのシーンではホラーが薄れ、代わりにサスペンスの要素が強くなっていきます。この後のジャッキーの車が春日部を脱出しようとするシーンからも、同様の事が言えます。

そして、ミッチーのそっくりさんがジャッキーの車にしがみつくシーンが、「踊れアミーゴ」における最後のホラーのシーンと言えます(その後の、そっくりさんにジャッキー以外が捕まるシーンもホラーと言えなくもないが、あくまで観客の多数に恐怖を感じさせられるかという意味では、ミッチーのシーンが最後だと思われる)。そして、このミッチーのシーンではホラーだけでなく、激しいアクションも加わっています。つまり、この辺りから「踊れアミーゴ」もそれまでの劇しんで健在だったアクションシーンが目立ち始めるわけです。

さて、しんちゃん達はコンニャクローンに捕まり、敵の正体であるアミーゴスズキ(アミーゴ(amigo)はポルトガル語(スペイン語)で「友達」と意味する男性名詞、つまり厳密には「男友達」を意味することから(女友達はアミーガ(amiga))、敵の本当の正体の伏線が敷かれている)と対面する辺りで、ホラーの要素は事実上無くなり、さらにジャッキーがSRIの仲間達と共に、コンニャクローンを溶かす液体を持って駆けつけると、もはや危機感すらも無くなります。

この後のしんちゃん達がコンニャクローンを倒して(溶かして)いくシーンでは、「カスカベボーイズ」や「3分ポッキリ」でジャスティスの部下や怪獣を簡単に倒していくシーンと同質のものであると言えます。ただし、この一連のシーンは「3分ポッキリ」における「偽としての非日常」とは言いがたいです。なぜなら、コンニャクローンを倒している間、ジャッキーがアミーゴスズキとの勝負を挑んでいたからです。

この勝負の前に、ジャッキーはアミーゴスズキを逮捕する言っていたのにも関わらず、なぜジャッキーやSRIはアミーゴスズキを力ずくで逮捕せず、サンバの勝負に挑んだのか。それは、「逮捕」という意味が、本作品においては一般に使われる意味と異なるからだと考えられます。

アミーゴスズキはジャッキーの踊りを未熟だと指摘し、うまく踊るためにコンニャクローンを作った事を言いますが、アミーゴスズキはサンバを踊るための技術を最優先し、ジャッキーもそれに同調しています。アミーゴスズキもジャッキーも、なぜサンバを踊るのか、サンバを踊る事に何の意味があるのか、このサンバの根本ともいえる部分がすっぽりと抜け落ちていたのです。

そして、ジャッキーはアミーゴスズキに(技術の面で)一旦は敗れた後、「私には無理に踊らせても何が良いのか分からない!」と言っていますが、ここでジャッキーは技術だけでサンバを踊っても何も意味もなさない、何か根本をなす部分が抜けている事に気付き始めたと思われます(これは、無理やり踊らさせている春日部の人々を見たひろしが「人々を無理矢理おどらせやがって」という台詞から、おそらくひろしも無意識ながら、同様の事を指摘しているだろうと言える)。

さて、技術だけでは踊れなくなったジャッキーに、しんちゃんが応援に駆けつけ、しんちゃんはお尻をふったサンバを踊ります。アミーゴスズキにとっては、技術も何も無い、サンバとは到底呼べるものではありませんが、しんちゃんは「これがオラのサンバだも〜ん」と言います。ここで、ジャッキーは「自分のサンバ」なるものの存在に気付かされます。それは技術に囚われず、自分らしさを見つけ、自分らしく踊る事、そしてその踊りの中に、楽しさを見出すようにようになるということで、それまでのジャッキーやアミーゴスズキに抜けていた、サンバを踊る根本の意義として、「楽しいから」というのを見つけるに至ったわけです。

その根本となる部分が埋まったジャッキーと、その事を彼女に伝えたしんちゃんを見た野原一家を始め、春日部の人々、そしてサンバを嫌がっていた上尾先生までが踊り出します。これは、ジャッキー達の踊りに刺激された春日部の人々も自分らしさを、自分らしく踊る楽しさが湧き上がってきたからだと考えられ、上尾先生も自分らしくサンバを踊る楽しさ、そのサンバを踊るその意義の根本をなす部分に対し、もはら理性が抗えなくなってしまったからだと言えます。

そして、続いてしんちゃんは春日部音頭を踊りだしますが、春日部の人々は音頭にも何の抵抗もなく、サンバからシフトしています。ここで、サンバであろうと音頭であろうと、楽しければ常に寛容に何でも受け入れることが出来るという、「楽しさ」の特徴がここで表れています。アミーゴスズキやコンニャクローンの、技術だけを追求したサンバは、よしなが先生のそっくりさんが園長先生の聞いていた春日部音頭のカセットテープを止めたり、そのカセットテープが幼稚園の庭の隅に捨てられていた事からも分かるように、サンバ以外の踊りには極めて不寛容です。

言うなれば、アミーゴスズキは春日部の人々をそっくりさん、つまりニセモノと入れ替えていたわけですが、彼らの踊るサンバもまた、ニセモノのサンバだったといえます。サンバを踊る意義の根本をなす「楽しさ」というものがすっぽりと抜け落ち、単に技術だけを追い求め、他の踊りは一切受け付けないというサンバは、本物の踊りではないというわけです。

彼らのサンバがニセモノであるというのは、まつざか先生が冒頭でサンバをお遊戯会にと薦めていたのに、翌日のよしなが先生のそっくりさんがサンバを薦めるのには喜ばず、むしろ違和感を抱く描写からも、その事が窺えます。つまり、まつざか先生はこの時のよしなが先生のサンバに対する意気込みがニセモノである事を、無意識に感じ取っていたと言えます(冒頭のまつざか先生も、音頭に不快感を表すが、コンニャクローンの不寛容さはその比ではない)。

さて、アミーゴスズキは「楽しさ」に押され、遂に音頭の手を叩いてしまいます。ここで、アミーゴスズキの敗北が確定したと言えます。さらに、ジャッキーからの指摘(「みんなと踊ると楽しいんじゃなくて?」)で、サンバを踊る「楽しさ」を意識し始めます。そして、アミーゴスズキの部下のチコがジャッキーを銃撃し、SRIの実力行使によってアミーゴスズキの山車は崩れ落ち、さらにアミーゴスズキのコンニャクローンが溶けて、正体を現しますが、このシーンのはまさに「彼女」がサンバの根本である「楽しさ」を見出し、自分のこれまでのサンバがニセモノであった事に気付いた事を象徴するシーンです。それは、後の「自分らしく踊ることを忘れていた」という(「彼女」ではなく)彼の台詞からでも分かります。

そっくりさんの材料であるコンニャクローンは、本作品においてニセモノを象徴するものであり、アミーゴスズキは技術を求めるあまりコンニャクローンというニセモノで体を包んでしまった、つまりアミーゴスズキ本人もニセモノの捕われの身になっていたと言えます。これは、「自分らしく踊る」というサンバを踊る意義の根本を成す部分を消失させてしまったがために、技術の向上のみにこだわり、自分の踊りをニセモノにするしかなかったと考えられるわけです。

そして、根本が抜けていても、技術のみで自分の踊りを支えてきたのですが、その根本を持つ春日部の人々の踊りと向かい合った時、実はもろく、砂上の楼閣であった彼(彼女)の踊りは崩れざるを得なかったのです。

踊りに敗れたアミーゴスズキは、ジャッキーに自分を逮捕するよう両手を差し出しますが、ジャッキーは逮捕をしません。それは、「楽しさ」を失ったサンバと、それを象徴するコンニャクローンが消滅した事によって、もはや逮捕する相手はいなくなったからです。そして、これが「逮捕劇」と呼ぶに相応しい出来事だったとも言えるのかもしれません。

もし、ジャッキーやSRIの隊員達がアミーゴスズキを力ずくで本当に逮捕していたら、サンバは悪の象徴となってしまう恐れがあったため、サンバを決して悪にしないための「逮捕」の仕方が必要だったと考えられます。サンバそのものは決して悪ではないという制作スタッフの観客に対する意思は、ジャッキーの台詞(「私 これからもサンバを踊るわ」)やエンディングでのサンバのシーンからも明白です。

アミーゴスズキとジャッキーは実は親子であった事が終盤で判明していますが、ここではサンバを通じた親子愛も描かれています。アミーゴスズキはジャッキーのサンバホイッスルを(スーパーでのシ−ンまで)持ち続けており(これがジャッキーの命を救う)、娘とうり二つの姿のコンニャクローンを見に包んでいた事からも、たとえ(前述したように)ニセモノに捕われていようと、親子の愛は残されていた事が分かります。だからこそ、そこに父を本物のサンバへと戻す事が出来たと考えられるのです。変則的な愛の描かれ方がなされた本作品も、ここに来て最大の愛の見せ場が出てくることになったわけです。

ただし、最大の愛の見せ場というのが、野原一家やかすかべ防衛隊ではなく、映画のオリジナルキャラクターで描かれている事から、この愛もまたそれまでの劇しんでの描かれ方に比べると変則的であると言えます。一方で、そのような最大の愛を派生させた、映画のオリジナルキャラクターの活躍により、主人公のそれがやや薄れた感を見せているのは、初期の劇しんにしばしば見られた傾向でもあります。

「踊れアミーゴ」は、敵の親玉を力でねじ伏せる事はしない点では、「オトナ帝国」と類似しています。アミーゴスズキが音頭を踊らされたシーンは、20世紀博の匂いメカの匂いにレベルが急落するシーンに、ジャッキーが「彼女」に「楽しい」事を指摘するシーンは、しんちゃんがケンとチャコに「ズルいゾ!」と言うシーンにそれぞれ当てはまると思われます。敵の親玉を力でねじ伏せることをしないという点でも、「踊れアミーゴ」は(この点は「オトナ帝国」を除く)他の劇しんとは、異色的な側面を出していると言えます。

また、「踊れアミーゴ」はコンニャクローンを倒していくというクライマックスシーンにおいて、しんちゃんの服装が普段着ではなく幼稚園の制服になっています。また、そのクライマックスでも、「カスカベボーイズ」に続いてかすかべ防衛隊の活躍も描かれていますが、ここにはそっくりさんと入れ替わっていた風間君はしばらく登場しません。そして、最大のクライマックスとも言える踊りのシーンでは、大勢の春日部の人々が(自ら楽しんで)参加しています。

クライマックス時のしんちゃんの服装、風間君がいないかすかべ防衛隊の活躍、そして最後の戦いに春日部の人々が楽しんで参加するといった、このような展開は、今までの劇しんには例の無い事であり、本作品がますます異色作であるという事を強調したものとなっています。

このような変化球的な作品を送り出した劇しんは、いよいよ次回作「ケツだけ爆弾」において、第15作目という節目を迎えることになるのです。





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